NAYヨガスクール体験記 71 小林和之 |
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「あなた方のなかに百匹の羊を持っている人がいて、 その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、 見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか? そして見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、 友達や近所の人々を呼び集めて、 「見失った羊を見つけたので一緒に喜んでください」と言うであろう。 言っておくが、このように悔い改める一人の罪人については、 悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも 大きな喜びが天にある。」 新約聖書『ルカによる福音書』15章4〜7節 ここ最近読んだ幾冊の本の中で、 この聖書の引用を2回、 目にした。 ひとりは、ある女性作家の中学生の頃のエピソードで、 度重なる非行のゆえ、 学校から退学処分を受けそうになったとき、 一人の先生が、職員会議の場で、 この聖書の言葉を用いて、 退学に反対してくださったということだった。 このときは、退学を免れたが、 しかし次なる事案が生じたとき、彼女は退学になった。 先生は最後まで反対してくださり、 その後、戯曲家として活躍される彼女の公演があるたび、 観に来てくださっていたというエピソードだった。 もうひとりも作家の方で、 紛争地で 拘束された友人を助けようとして、 亡くなられた方について語られていた。 亡くなられた彼の行動に隠されている 内在的論理を解き明かしたこの引用も、 こころに残るものであった。 拘束された友人を 誰も本気で助け出そうとしない状況のなか、 聖書にあるこの言葉とともに、 彼は内なる声を聞いた。 「誰もやらないのならば、君がやらなければならない」と。 一部の人々から 蛮勇とも揶揄された彼の行動を、 キリスト教にある召命、という言葉を用いて、 内なる声を クリスチャンである彼は聞いたのだと、 作家は語っていた。 僕は、聖書を読んだことはないけれど、 この聖書に書かれている言葉は、 こころの琴線に触れるものがあった。 ・・・このように悔い改める一人の罪人については、 悔い改める必要のない 九十九人の正しい人についてよりも 大きな喜びが天にある。 僕は、イエスが言ったとされるこの言葉は、 真実だろうと思った。 そして、このお話を引用したふたりの作家もまた、 この言葉の意味や尊さを 体験として知っているのだと思う。 普段は忘れているのだけれど、 ふとしたとき、僕もまた思う。 自分は、人に助けられた人間だ、と。 そう思えることが 自分にとって、 とても大切な意味を持っている。 気がついたら、道に迷っていて、 自分では、もはやどうにもならない。 道に迷った一匹の羊。 羊は、自分が罪人であることを知っている。 それだから 闇夜の野原に 悲鳴だけを響かせている。 しかし 誰からも 裁かれもしなければ 相手にもされない。 しかも、やっかいなことに、 自分は、夜の嵐に吹かれているのか、 それとも自分が夜の嵐なのか、 その違いすら危うく分からなくなりかけている。 自我が、苦しみから逃れようと、 知るまい、見るまいと、 より一層深いこころの迷宮に紛れ込もうとしたのだ。 (NAYヨガスクールの)教室の扉をたたく少し前のことだ。 その後、景代先生や 指導員さんたちに助けられた僕であったが、 ここで誤解があってはならない。 どんな暗く激しい夜の嵐のなかでも、 自我の意識の光がなければ、 何物も照らすことは出来ない。 自我と無意識の葛藤の向こうに、 成長や救いはもたらされるのだ。 景代先生のご指導は、 この自我と無意識の葛藤を 正常に行わせることからはじまっていたように思う。 難しいことはさておき、 僕は、人に助けられた人でよかったと思う。 自分がほんとうは 無力であることを知ったから。 傲り高ぶりやすい自我も、 この経験から来る 感謝の念には 敵わない。 矛盾しているように聞こえるかもしれないが、 ほんとうの自信や正しい力は、 自分は無力であり、 人に助けられなければ 生きられない と思える人間が、 得られるのかもしれない。
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