NAYヨガスクール体験記 88 小林和之 |
魂の座への回帰 3 |
「フィラデルフィア」という作品がある。 その映画の美しいラストシーンで、歌が流れていた。 ニール・ヤングの歌う歌詞の中で、 「・・・愛というものがわかるときがある・・・」 というフレーズが繰り返され、 この映画の秀逸さをいっそう際立たせている。 「・・・愛というものがわかるときがある・・・」 巷ではよく「愛という言葉をたやすく使ってはいけない」 というフレーズを聞いたりする。 おそらく愛というものが不確かであるゆえ、 あまり頻繁に使うと 信憑性が疑われることを危惧した言い回しの一種なのだろう。 「戦略的に、ここぞというときだけに使用しなさい」 という意味にさえ聞こえてしまう。 愛というものがないとは誰も思わないだろう。 親の愛、家族への愛、恋人への愛、我が子への愛、 動物や植物などの自然界への愛もあれば、 人によっては、鉱物でさえ愛の対象となる。 人の好みや嗜好は多様だ。 愛というものが物質として目に見えなくとも、 行動原理やパターンで、 何らかが介在している様子が、わかるだろう。 しかし、これらの愛は、 反面、強い執着を生む作用もある。 何だか「煩悩を断ちなさい」 と説教するお坊さんのようだが、 恋人に裏切られれば憎しみが生まれ、 我が子をいじめる人がいれば、怒りが湧く、 というあたりまえの反作用だ。 僕が、景代先生から教室で学んだ「愛」というものは、 執着を生むようなものとは違うように思う。 勿論これらの愛を否定するつもりもなく、 僕も典型的なその一員なのだが、 しかし、けれどやはり、人間には、 世俗的な愛情とは異なる神秘的な領域も隠されている、と言いたい。 ヨガでは、愛を司るチャクラをアナハタチャクラと呼び、 胸の中心にあるとしている。 実際にここには、部位的には、心臓があり、 免疫系の胸腺がある。 (アビュース(虐待)を受けた子の胸腺が、 通常の4分の1や5分の1に萎縮するのは、 愛(この場合、愛とは逆の作用) というものと無関係には思えない) 愛というものは, 本来オソろしい作用をもっている、 という話は以前の体験記でも書いた。 教室にいると、いつも感じる ふんわりと包み込むような心地のよい波動・・・。 その波動と同化しようとすることにより、 無意識が動き出す。 そうして 心の底に封印した記憶が 浮上するのだ。 まるで「愛」を知るためには、 あなたには、このテーマとの葛藤が必要ですよ。 と、言われているみたいに。 愛のテーマと向き合うとき、 もれなく孤独も連れ立って現われる。 そもそも 愛のテーマと向き合う人は、 深刻な悩みを持たれている方が多いのではないだろうか? けれどそれゆえに、 自分の存在そのものと向き合う葛藤が用意されている。 ・・・そして、心の動きと連動して、それは開花へ向かう。 愛の前では、人は、皆、裸ん坊の子どものよう。 誰も嘘をつくことなど出来ない。 愛というものは、減りもしなければ増えもしない。 限定されることのない波動。 すべてのものと同化、もしくは、共振していく。 愛は、喜びと哀しみを包摂している。 純度の高い喜びは、透明な哀しみそのもので、 純粋な哀しみは、陽の光のようなあたたかな喜びそのものでもある。 僕は、自分の力だけでは 到底この「愛」を知ることは出来なかった。 一言もしゃべらなかった僕に、 景代先生が、厳しくも、身を挺して教えてくださったから、 知ることが出来た。 しかし、そののち、次の段階へ進むことをおそれていた頃、 レッスン中に景代先生が、 「ちょっと胸が動いただけで やめてしまう人が多いのよね・・・」 と話されたので、 きっと僕は、ある程度、知ることが出来たのだと思っている。 ☆~☆~☆-----------------------☆~☆~☆ [1] 心の旅(マインド・トリップ)への出発 愛のテーマ ********************************************* |
NEW★1976年創立の「内藤景代ヨガスクール」は「NAYヨガスクール( 内藤景代・主宰)」と名称変更しております。★2015年にレッスン場所が〔東新宿〕から〔西新宿〕に移転しました ★2016年が創立 40周年です。 |