大きな海の中で、枠に入ったままの青い魚
NAYヨガスクール体験記 50
                     小林和之
直線上に配置

小舟の旅   2



 祖母とふたり暮らすことになる
きっかけとなった日の夜を、僕は、よく憶えている。

誰も関わってはいない。

僕ひとりでのことだ。

それは祖母と暮らしはじめる1年ほど前のことだった。
亡くなった祖父のお墓参りに行った帰り、
駅前にしては、ひなびた通りの交差点から、
僕は、祖母の家へと続く一方通行の道を見たのだ。
それがはじまりだった。

子どもの頃、母や兄弟たちとよく一緒に遊びに行った祖母の家。
その家へと続く道は、とても寂しく見えた。
赤い点滅灯が一方通行の道を薄ぼんやりと浮き上がらせている。
細く暗い道。
暗い夜の空気の奥に、ひとり家にいる祖母の姿が浮かんだ。
暗闇のなかに燈る祖母の姿を見つめながら、僕は交差点に立っていた。

《どうして僕は行けないのだろう?
「おばあちゃん、遊びに来たよ」
と言って歩いて行けば、すぐの場所におばあちゃんの家はあるのに・・・
人ってこんな風にみんな他人になっていくのかな?》

僕はそう思い、交差点にいた。
おばあちゃんはこの暗い通りの向こうに、
今は、ひとり暮らしている。
昔あった、あたたかい場所が、時とともに無くなろうとしている。
 
 そのすぐ後に祖母は倒れ、病院に入院した。
小康を得て、快方へ向かう頃、病院へ、母とお見舞いに行った。

祖母は、僕を見て、大きくなったねぇ。
と、少しよそ行きのような笑顔で、
お菓子をひとつ、またひとつと僕に手渡してくれた。
交差点に立ち尽くした夜のことを、なぜか少し後ろめたく思いながら、
僕は僕で、少しよそよそしく言葉少なに祖母と話したのだ。

「おばあちゃんの家で暮らしたい」

祖母の退院からどれくらい経ってからのことだろう? 
母にそう伝えてみた。
はじめは驚いていた母だが、
そのうち折れ、
強い意志を持った僕は、ボストンバッグを担いで、
半ば強引に祖母の家へ押し掛けたのだった。

 それは僕の反抗だった。

何も親に反抗したわけではない。

それはとっくに終わっていた。

たぶん僕は、あの日の夜に、
交差点に立ち尽しながら思った
僕のこころに反抗したのだ。

何もかも他人に変えてしまう、
残酷な時の流れのようなものに。
小さな英雄のような気持ちで。

 それからの暮らしはどうだったか? 

はじめはよそよそしかったふたりだが、
幾度か喧嘩もして、
もともと相性も良かったのか、
僕らは、すっかり仲良くなった。

 中学生の頃から、
クラス全員に無視されたり、
通っている高校でも顔のことでからかわれたり、
いじめられていた僕は、
人間関係をつくるのが下手で、
いつもうまく行かず、
調子に乗って一人で浮いてしまったり、
逆に暗く閉じ籠ったり、
こころを許せるような友だちはなく、
誰も信じられなくなっていた。

そして、そのうち、
ほんとうの人恋しさを封じ込めて、
何でもひとりで出来ると、
まるで、ひとりで行動するのが好きな人のように
無理して、振る舞っていた。

 だから、祖母と暮らしてしばらく経ったある日、
ふたりで庭を見ながら話したことを良く憶えている。

「おばあちゃんは旅をするとしたらひとりがいい? 
それとも友達と?」

 まるで自分は人と違うんだということが言いたくて、
僕はそんな切り出し方をしていた。

「おばあちゃんは、旅行をすると言ったら、
仲のいいお友達と行くことだねぇ」

「僕はひとりがいい、
旅って言ったら僕はひとりで行くんだ」

「和ちゃんは変わっているねぇ、
おばあちゃんは、旅行と言ったら、
お友達と電車の中でお弁当を食べたりね、
わいわいお話ししながら行くのが楽しく思うよ」

「ふーん、そうなんだ、僕は、ひとりがいいよ」

 僕はもっと自分のことを変わっている
と言ってほしかった。

それなら、ほんとうに一人旅が好きな人に思えるから。

その嘘の姿勢が、
隠したこころが、
やがて僕のこころに、
「廃屋に住みたい」という
病んだ意思を生み出していったのかもしれない。

そして、僕は、ほんとうにそれを行動に起こすことになる。

そこからの破滅的な道のりは、
なかなか書くことは出来ないが、
結果だけは知っている。

 19の初夏に、祖母は亡くなり、
僕は、かろうじて
(NAYヨガスクールの)教室とつながることができた。
そして景代先生に救ってもらった。

それも相当深く
暗い穴の底まで、
降りて来て頂いたと思う。

教室へ通いはじめ、
どんなに厳しくとも、
伴走して頂いているような気がしていたから、
僕は、景代先生のことを信用していた。

ほんとうは、
救うという言葉を
使いたくはないのだけれど、
他に適切な言葉は、思い浮かばない。


 祖母と暮らしたあの日から、
何十年も経ったある日、
不思議なことに、僕は、祖母の姿を見ることになった。

それは、仕事中のことで、
僕は、その日、
地域で献身的な活動をしている市民団体の皆さんを前に、
自分の会社が、
これから携わる新規事業について
説明していた。

それは、地域の世代間交流を含め、
老人の孤立を防ぎ、
人と人とのつながりの場を生み出す
サロン風のコーディネイト事業で、
僕は、その説明をしていたのだ。

ひとり旅が好きなんだ、
と、あの日、こころを隠し、
斜に構えて言っていた僕だったが、
今はこうして、
人と人とのつながりを生み出す事業を
仲間とともに手がけるようになった。

会場の皆さんも、
静かに聞いてくださり、
一通り話し終えた僕は、席に座った。

ふと淡い光の入る公民館の窓に目をやると、
薄紫色のきれいな着物を着た祖母が、
そこに立っていた。

嬉しそうに笑っている。

はっとしたそのときに、
祖母の姿はもうなかった。

薄紫色の淡い光、
祖母が好きだった色が、
誰もいない窓のまわりにまだ、漂っているような気がした。

不思議なこころの現われに、
僕は、驚くこともなく、
ただ胸が熱くなった。

祖母に会えた嬉しさにひたりながら、
人のこころのしくみを知った。

「こんな風になっているのだ」と。

幽霊を見たわけでも、
幻覚を見たわけでもない。

こころのしくみのありようを知り、
もたらされた作用に、
何ものかの計らいとともに
深い信頼を寄せるのだった。

かけがえのない こころの作用。

けれどそれは、無意識と呼ばれる神々のものではない。

この頼りなげな小舟の歩みとともにあるのだ。

 今の僕は、何の無理もなくこう言える。

「友だちと一緒の旅も、
 ひとりの旅も、
 どちらも好きだ」と。

 
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※追記:

そういえば、今年はとくに、薄紫のアジサイ(紫陽花) が綺麗です。

「猫の集会」のRyoさんの写真も、今月はアジサイ(紫陽花) と「福 増」 こちらへ
美樹さんは、薄紫のラベンダーと白いアジサイ(紫陽花)  こちらへ

〔おばあさまとアジサイ(紫陽花) のお話の回〕を思い出しました。

和之さんさんの「NAYヨガスクール体験記」も、すでに50回…。
4年以上の連載になりました・・・。

和之さんの「小舟(こぶね)」に象徴(シンボル)される、〔こころの旅〕に、
毎月ごいっしょして、わたしも舟をうかべているように思います。

この連載の読者のかたも、同じように感じるかたもいるでしょう。

瞑想していると、
わたし達の〔意識〕というものが、
大きな海原をいく、小さな小舟のようなものと感じるのと同じです。

それぞれが、別べつの小舟をあやつり、
自由でいながら、
同じように、
〔意識という大きな海原〕をしずかにゆったりとわたっていく・・・。

静かな旅ですが、深い旅…。

和之さんたちの「地域の世代間交流を含めた、新規事業」の
ご成功を、こころよりお祈りします。    合掌 

                                 NAYヨガスクール 内藤 景代 拝

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