NAYヨガスクール体験記A
水の底から湧き上がるような忽然と生まれる声を聞きたい。ふるえながら、おののきながら。あられもない一糸まとわぬ姿で声は生まれる。この世というもののなかに。・・・その声とともにありたい、と願い、僕はいつも馬鹿な失敗をくり返しているのだろう。
声。
教室へ入会したその日にもこころの声を耳にした。ゆっくりと開かれていく扉とともに、じゅうたんの色の広がるその刹那に。この世からすべての音が逃げ去り、思いがけぬ「声」だけが響いたのだ。
《ここを最後にしよう、ここになかったら終わりにしよう・・・》
声は確かにそう言った。自分でも驚いたのだった。
はたして、そこまで思いつめ、教室へ訪れる人はいるのだろうか? 僕は案外、少なくとも当時は、いたろう、と思う。この人は苦しんでいる、と思う人が、いた。僕はそれについて語る資格はない。だからここでは控えようと思う。
思いつめていた、といっても「死のう」と、思ったことは一度もない。僕は生きよう、としてうまく行かず苦しんでいたのだ。
だからいつも考えていた。
心というのは、いったいどうなっているのだろう?
どうして人は恥ずかしくなるのだろう?
不思議でならない。(それは今も)
けれど何となくはわかっている。《人は自分を知るとき、恥ずかしくなる》のだと。
教室へ通う以前の僕は、この煩わしい恥ずかしさから自由になろうとしていた。知ることと逃げることの区別も付かずに・・・。
僕はあまりそれを語りたくない。この作業の過程ですら、僕は同じ失敗を繰り返しそうだからだ。
18歳のその頃、僕は、冥想〜こころを旅する本〜を駅の近くにある本屋の棚で見つけた。手に取り、中を見てすぐに気に入った。絵がたくさんあってわかりやすく、何より言葉がきれいで語りかけられているみたいだったから。
《この人の本ってこわくない・・・》と僕は思った。
《こわくない》と、素直にそう思ったのだ。
当時、巷にあった精神世界の本は実際気持ちの悪いものが多かった。それらの本と景代先生の本とはあきらかに違っている。しかもむずかしくない。
僕はこのときほっとして、きっと素顔に戻っていたのだろう。ずいぶん長いこと失なわれていた素顔に。
その素直さこそ、心の旅の最初の一歩になろうとは思いもせず。
「冥想〜こころを旅する本〜」は、今読み返してみても豊かな本だと思う。
「イメージ −カルマの殻」や「チャクラ −こころの七段階」「悪」「両性具有」についてなど魅力的なエッセンスが要所にあり、また「気づいたらひとりだった・・・」〜「ひとつになりたい」〜「カオスからコスモスへ」など展開にドラマ性があり、いつのまにか素直な共感に身を浸している。
それは景代先生の体験が昇華され、読む人に、普遍的な心の成長というものを演出する構成になっているからだろう。
〜こころの成長はみんな違う。けれど誰もがこの成長の過程のどこかにいるのだよ、と言われているみたいに。
特にカルマの項にある内容の濃密さは、景代先生らしい。
・・・アセリ厳禁! 時を味方にしないで、自我の意思だけで、カルマから脱出しようとすると袋叩きにあうことがあるのです。カルマの袋。□。(文中より)
この言葉に一瞬だけ、「まさか」と思ったのだ。18歳の僕は心の揺れを感じていた。それは恐れのようなものだった。
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新書版と四六版=新版と旧版『冥想(瞑想) こころを旅する本 マインド・トリップ』 http://www.yogamindtrip.nay.jp/ |
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