大きな海の中で、枠に入ったままの青い魚
NAYヨガスクール体験記 26
       小林和之
直線上に配置

紫陽花  (あじさい)

紫陽花の葉が雨に濡れている。

過ぎ去ろうとしている台風の空の合間に
 やたらと速く薄い雲が流れ、

中途半端な日の光がぼんやりと葉の色を浮き上がらせている。

生ぬるい風の匂いがした。南の方の空気が運び込まれたのだろう。

トタン屋根の下の縁から紫陽花が見える。

 

僕は、もう遠い空は見ていなかった。紫陽花を見ていた。

 

「紫陽花の花がきれいだねぇ」

 

おばあちゃんの声が聞こえた。

 

それは、ほんの2年前、祖母が紫陽花を見つめながら

同じこの縁際に座り、僕に言った声だった。

 

「紫陽花がきれい」

 

僕はその意味がわからない。

 

祖母の満たされたようなまなざしも。

 

天気雨の降る狭い庭は、濃い青紫色の紫陽花でいっぱいだった。

 

僕は日差しの強くなり始めた庭を見つめながら、

 

どうしてこんなことになったのだろう……? と思った。

 

あの日と同じ紫陽花の花を見つめながら。

 

僕が帰って来なければ、

今年もまた、

祖母は、この縁から紫陽花を見つめていただろう、と思った。

 

祖母の葬儀の後、

しばらく経ったある日、

母は訪れ、

家の中をせっせと片付けていた。

 

僕は、柱に背をつけて寄りかかり、

何を手伝う風でもなく

雑巾がけをしている母の後姿を見ていた。

 

午後の日は傾き、

塀に斜めに影がかかっている。

夕刻が訪れようとしていた。

 

なぜだかはわからない。

 

どうしてそうしたシチュエーションになったのかも。

 

母は、

僕の前に正座をして座っていた。

 

僕は、ひざを抱えるみたいに、

母の目を見ないで言った。

 

「おばあちゃん、

    おれのせいで死んだのかなぁ…」

 

「かずちゃんのせいじゃないから」

 

何かを遮るように、

母が、すぐそう答えた。

 

傾いた日に、

薄いすみれ色の翳のある部屋のなかで。

 

祖母の遺影越しには、紫陽花の花が咲いていた。

 

「おばあちゃんは、かずちゃんが来てくれて喜んでいたよ、

 生まれてすぐ、かずちゃんは、家に来たから、

 だからまた来たんだねぇって、

       よく言っていたのよ」

 

 そう母が言った。

 

はじめて聞く話だった。

 

母がそう言ってくれたから、

僕はこのとき、

事実から逃れることが出来た。

 

事実と別であったとしても、

母は 

親の愛で

それを言った。

 

それゆえ、

僕は一時であろうとも

事実から逃れることが出来たのだ。

 

だから僕は、

天気雨の庭に咲く紫陽花を見ながら、

これからのことを思った。

 

《生まれ変わろう》

 

今年もまた、

季節は匂いの違う南の風をもたらし、

これから夏が来ることを教えている。

 

けれど、祖母はもういない。

 

僕は、メランコリーのような期待とともに、

雨も上がり、白い光線に当てられた庭を見た。

 

夏が来るのだった。

 

同時にその期待は、

終わりを孕んでいた。

 

それは ほんとうにもうすぐ来るように思える。

 

 

僕の終わり。

 

 

死を予感していたわけでも、

意思していたわけでもない。

 

ただそれは、抗しようのない作用で、

僕を、結末である場所へ送ろうとしているようだ。

 

若き神に

運命づけられる

死と再生の物語のように。

 

現実のバカな自分とは

かけ離れた

神話的チックで

危険な陶酔を帯びながら。

*〜・〜・〜・〜*〜・〜・〜・〜*〜・〜・〜・〜*〜・〜・〜・〜


※追記僕の終わり。

若き神に 運命づけられる

    死と再生の神話的な物語


今月(2013年7月)の和之さんのお話は、
「意味のある偶然」で響きあい、

今月の[内藤景代の瞑想フォト・エッセイ]
わたしの指にとまる蝶々の話」と

「共時性(シンクロニシティ)」で
共振(シンクロ)しています。こちらへ


古い自分が死んで、新しい自分が生まれる、
「死と再生の神話的な物語」。

その前半。
「古い自分の死」を予感するお話。

「僕の終わり」。

・・・でも、そこで
「おしまい」ではないことは、
生きてみれば、
生き続けてみれば、
わかる。

イモ虫時代の「僕の終わり」。

新しい羽化した「僕」は、
「死からの、甦り(よみがえり)」。

だから、
そそっかしい少年が、
そこで「おしまい」と、
はやとちりしないように、
<変容(メタモルフォ−ゼ)と
死と再生の物語>
が、神話的に、
語り伝えられているのでしょう。

わたし達の、「たましいの財産」として。

蝶々も神話も、みんな、「こころの世界でひとつになっている」
と感じますね。

内藤景代・記


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