私が指導員を志願させていただいたのは、
大学に在学中の20歳の時でした。
外向タイプで、キャピキャピ・ルンルンの
「ネアカ仮面」の私は、ヨガや精神世界関係の本を
自ら読むタイプではありませんでした。
当時ブームになっていた
<フィットネス>の一つとして、ヨガに興味を持っており、
始めてみたい―と思っていました。
知人の紹介で、当時カルチャースクールの中にありました
景代先生のヨガ教室に通い始めました。
景代先生のヨガに触れ、私は大変感動して、
ドンドン先生のヨガの世界に惹かれていきました。
今まで、学んだことのなかった<心と体のつながり>
<大宇宙と小宇宙は一つに結ばれていること>
<気のお話>などを、
分かりやすく、楽しくお話しして下さり、
また、体のゆがみがとれて腰痛が治ったりと、
教室に通うたびに、
自分の中に<光>が増えていくことがとても嬉しく感じました。
そして、気付いたときには、
景代先生や指導員の先生方のように、
ヨガを味方にした
ライフスタイルを私も身につけたい、
強く明るく生き生きと輝いて生きたい・・・
それは、景代先生のヨガの世界に秘密がある
・・それを、学びたい!!
と熱望するようになっていました。
また、教室で、学んだことを、
知人や家族に話したり、実践すると
とても喜ばれ、
幸せのネットワークが広がっていく事がとても嬉しく感じました。
人の喜ぶ顔を見ることが、
自分の喜びになっている
・・そうした自分の内面の変化にも、驚いていました。
景代先生のヨガの世界に魅了された私は、
まず自分自身のために学びたい、
そして、願わくば1人でも多くの方に、
先生のヨガのすばらしさを伝えられる人になりたいと願うようになり、
指導員を志願しました。
ただ、若さだけがあり、教養もなく、社会性もない生まれっぱなしの私を、
ご自分の代理(=指導員)として、独り立ち出来るまでに育てようと、
私の志願を受けとめて下さった先生に対して、
「なんと無謀なことを引き受けて下さったのか・・」
と今の私は思います。
それほどに、何もない空っぽな人間でしたし、
子供でした。
そんな、空っぽな私を育て始めて下さった先生は、
私に、「本を読みなさい。
そして、感じたことを一行でも二行でもいいから書くクセをつけなさい。
それが、あなたの心を育てることになるから。」
とまず教えて下さいました。
また、
「分かることと
分からないことを分けること」
=自分の頭と心の整理、
等身大の自分の自覚の大切さを教えて下さいました。
それまでの私は、
分からないことにぶつかると、
コンプレックスが動き、
分からないことをごまかし、
逃げてばかりいました。
ですから、
なんの進歩も成長もなかったことに気付かせていただきました。
私は、景代先生が教えて下さることのすべてが新鮮で、
また、実行すること、意識することで、
ドンドン自分が変化してくことが実感できました。
また、指導員として育てていただく上で、私たちは、
「NAYでのお仕事」を
単なる事務的で機械的な仕事ではなく、
<
カルマ・ヨガ>
の実践として学ばせていただきました。
カルマ・ヨガとは、
日常生活の実践で
因果(カルマ)を超えることを意味します。
良くも悪くも、
<行為する>ということは、
そこに<自分の心>が顕れてまいります。
私たちは、普段無自覚に行っていた
自分の行為を、
NAYのあらゆる
<お仕事(行為)>を通して、
意識化することを学ばせていただきました。
その結果、
その行為を生み出す、
自分の<思いこみ、
固定観念、
発想のクセ>
=<鋳型>
に気付かせていただき、
次に、また、
そのカルマを超える行為によって
<古い自分>を超えていくことを学ばせていただきました。
本人にとって、
それは<当たり前>の
クセ=カルマですから、
自分では、気付けないことがほとんどです。
それを、嫌われ役を承知で、
景代先生が「鏡」となり、
私たちに見せて下さいます。
それは、ほとんど
<ガマの油>状態で、
<うぬぼれ鏡>で
見たいように見ていた
自分の<虚像>が崩れ
<等身大の実像>
を見せられることになります。
誰もが、素直に
「教えて下さって有り難うございます。」
と、すぐには、なれません。
「鏡」である先生を憎んだり、
攻撃をしたり、
コンプレックスが大変動くため
<感情の嵐>が吹き荒れます。
<古い自分>
が死んで
<新しい自分>
が誕生する、
そうした精神のドラマ
=<イニシエイション>がそこには、起きてまいります。
そんなとき、景代先生は、
「鏡」となって
等身大の姿を見せる一方で、
その先にある
本人も気付いていない
新しい<可能性>、
成長した<未来像>も見せて下さり、
大きな励みも
同時に与えて下さいました。
そして、
「機が熟し」
本人が、自分の<本音>から納得し
<新しい自分>
に主体的に踏み出していくのを、
景代先生は、
「待っていて」くださいました。
指導員になることを
私は、人の上に立てること
=偉くなれること
と思っているところがありました。
しかし、
「鏡」に写った自分の姿(心)は、
大変汚く、
弱く、ドロドロとし、
腐ったものでした。
人間として
心根が最低の自分・・
それに気付かされることの連続でした。
指導員になって
「スーパーウーマン」になるんだ!
<光>に向かって一直線!
と思っていた私には、
真っ逆さまに、
地の底に突き落とされたような心境でした。
知りたくなかった。
何で
私だけがこんな目に遭うの?
と 被害者意識に凝り固まっていました。
そんなとき、
『冥想― こころを旅する本』の本の中にある
「泥の中に咲く蓮の花」
=ゴールデンフラワーのお話を、
景代先生がして下さいました。
「蓮の花が何故綺麗に花を咲かせているか?
というと、
根っ子をしっかりと泥のなかにはり、
それを汚いと切り捨てないで、
自分を成長させる栄養に昇華させているからですよ。」
その話を聞き、
「今まで自分の中の闇は、
見たくないとして、
なくそうとばかりしていたけれど、
そうではなくて、
<認知>する事が
大切なのだ。
今まで、方向性の違う
努力をしていたのだ。
こんなドロドロした自分だけれど、
その闇や悪を切り捨てるのでなくて、
<浄化・昇華>していけばいいのだ。」
と心が癒されました。
景代先生は、
「やっと、指導員として、
学んでいく心の基礎ができましたね。」
とお話下さいました。
「
BIG ME」という
<大きな自分・たましい>に気づく(感じる)ことは、
決して、高みに登ることではなくて、
むしろ逆方向で、
どこまでもどこまでも自分の心の深みに降りていくこと、
掘り下げていくことであること、
その途中のプロセスで、
思いもしなかった泥が出てきて、
投げ出したくなることもあるけれど、
そこを突き抜けていくと、
個人の問題の底が抜けて、
広く深い<普遍的>な心の世界にまでつながってしまうことを
私は、景代先生の導きによって気付かせていただきました。
また、
<心を開くこと(内側に)>で、
それまで人ごとだった問題が
自分のそれになり、
自分だけが抱えている問題だと
<孤独>を感じていたことが、
他の人とも根っ子のところでは、
つながっている問題でもあることを教えていただきました。
人として、置かれている状況や環境の違い、
性別の違い、年齢の違いなど、
<違い>は当然ありますが、
自分が<心を開く>と
<違い>を超えて
一つにつながっている心の世界があること、
(決して<自他未分>のみんな一緒ではなく)、
「人類の意識の進化のドラマ」を
共に歩んでいる仲間があること
・・・そうした広く深く暖かく不思議な心の世界を、
私は、NAYという暖かく開かれたフィールドワークの中で、
初めて体験し実感させていただきました。
私は、人間恐怖症の所があり、
人に対して心を開くことが出来ない、
また、人を信用するということが出来ず、
分からないところがありました。
しかし、それは、
まず<私>が<私>に対して、
心を開いていなかったからであること
(心を閉じていた=自閉していた)
を学ばせていただきました。
景代先生が、震源地となって、
教室中に満たされている「癒しの波動」
「光り輝くたましいの波動」
「聖なる非日常の波動」
・・・それに触れることで、
私は、遠い昔に閉じ、
冷えきってしまった心を、
再び溶かし、
ほぐし、
新たな命を与えていただくことができました。
私が、指導員として、学ばせていただいている中で、
ある時期、先生と一体化し
先生の<口まね、猿まね>をしているに過ぎないにも関わらず、
<一人前>になっているつもりで、
天狗になっているときがありました。
エゴが未熟なため、
先生やNAYという<BIG>と一体化することで、
大きくなった=成長したと思っていたのでした。
全く自分に自信が持てず、
人前で話をすることもままならない私に、
自信を持たせる意味で、
景代先生は、
先生の<ハロー効果>や
<一体化>によって「自我肥大」している私を、
ある時期
容認して下さっていたのでした。
しかし、時期が来ると、
先生は私のその「幻想」を打ち砕き、
わたしは<等身大の小さな私>を自覚させられました。
「虎の威をかる狐」
にしか過ぎない自分を自覚されられたことは、
大きなショックでしたし、
「指導員としては、先生の言葉を口マネしているにしても、
その方向性を生徒さんにお伝えしているのだからいいじゃないか?」
という疑問、反発が湧きました。
景代先生は、
「自分のことをマネする
ロボットを私は、作りたくない。
自分の頭で考え、
自分の感じたことを、幼くてもいいから
心を込めて自分の言葉で話して欲しい。
ロボットではなく、
人間になってほしい。
小さな自分を自覚することは、
きついことだけれど、
その自分から育てていきなさい。」
と ご指導下さいました。
私は、<景代先生の考え>であるにもかかわらず、
自分で考えたかのように、話していました。
見る人が見れば、
聞く人が聞けば、
私が考えたことでないことは「一目瞭然」であるのに、
自分を大きく見せたいがために、
偽っていたのでした。
そうした行為は、
成長の妨げになることをはっきりとご指摘いただき、
あらゆる事の、
出典を明らかにしていく
「知的正直」
を学ぶようにと、
ご指導を頂きました。
エゴの未熟さを自覚させられたことは、
大変厳しいことでしたが、
景代先生が、私たち指導員を
単なる
ご自分のコピーとしてでなく、
1人の人間として
個性を尊重し育てようとして下さっていることに、
私は、深い感謝の念を感じさせていただきました。
また、私は、1962年生まれで、
<新人類><マニュアル世代>と呼ばれる世代でした。
一体自分のどこがそのように呼ばれる世代のゆえんなのか?
・・全く自覚がありませんでした。
しかし、前述しましたように
NAYでのお仕事を
<カルマ・ヨガ>の実践としてさせていただき、
景代先生にご指導を頂きながら、
私は自分や自分たちの世代が持っている
<その傾向>に気付かせていただくようになりました。
それは、「こういう場合はこれ式」の
<パターン化>した<答え>を求め、
それを<暗記>することで、
良しとしてしまう発想が、根深くあることでした。
沢山の<テクニック>や<処世術>を覚え、
しかも、それを小手先で覚えていくような表面的な生き方。
どこか上っ滑りで、
深く自分の頭で考えることや
<ない>のであれば工夫をして、作り出せばいいのだ
ということが、基本的に欠けている自分を感じるようになりました。
そして、「どうして自分はそうであるのか?」
掘り下げていくと
「無感動・無関心・無気力」
という
<シラケ世代>の
冷えたハート
があることに気付かせていただきました。
丁度そのころ、<共時的>に、
私の心が動かない=感じないことが原因で、
教室においても私生活においても問題(カルマ)が顕れ、
景代先生から
「プラスチック・ハート
(生身の人間の血の通ったハートでなく、
プラスチックでコーティングされているような心、
打てば響くの
逆で、
打っても響かない心。
景代先生の造語)、
情なし」
という
ご指摘を頂き、
その自分のカルマを超えていくようにご指導を頂きました。
その一つとして、
「感動ノート」を自分用に作り、
一日の中で<自分の心が動いたこと>を書きとめ、
動く自分のハートを自覚し育てるようにとご指導を頂きました。
「感動ノート」を書くようになり、
改めて自分の感性、感情が大変鈍く、
動かないということを<再発見>しました。
また、
気が付くと
<明るい>ことばかりを書こうとし、
マイナスの感情は、
意識に昇らせないようにする傾向があることにも
気付かせていただきました。
景代先生からも、
「感動というのは、
感じ動くことなのだから、
苦しいことも心が動いたことですよ。」
とご指導を頂きました。
それと同時に、
プラスの感情のみを欲しがり
(嬉しい、楽しい、愛しい)、
マイナスの感情
(悲しい、憎い、嫌い)
を切っていると、
本当の意味での
わき上がる感情は、
分からないことを教えていただきました。
<プラスチック・ハート>で、
情がないように、
動かなかった私の心が
少しずつ動くようになり、
その反面で、怒りやすくなったり、
涙もろくなったりと
感情の起伏が激しくなることも
プロセスとしてありました。
マイナスの感情を切ることが
当たり前であった私にとって、
<現実は変わらないもの>
=<自分を合わせる所>
でしかありませんでした。
しかし、自分の心が感じる
怒りや不満、不平は
決して悪いものではなく、
そのエネルギーをプラスに転化していけば、
<現実を変革する>パワーになることを私は、
先生から学ばせていただきました。
そして、現実は、
自分がどう思い、どう感じ、どう行動するかで
<流動的に変化>
するものである事も学ばせていただきました。
また、
<マニュアルを覚え、
処世術を身につけることが
大人になること>
と思っていた私でしたが、
<現実は夢や理想を実現する舞台>であり、
<大人になることは、夢を実現する実力を身につけること>
であること、
<
翼をもった大人>
になる
<道>がある
ことも、学ばせていただきました。
→
◎ なぜ、
翼をもった大人になれるのか?
『聖なるチカラと形・ ヤントラ』 内藤景代
( Naito Akiyo)・著
〔目にみえない世界の【
構造】を、かたちにしたヤントラ〕↓↓
http://yantra-book.nay.jp/
改めまして、
景代先生には 沢山のご指導を頂き
「ゼロ」から育てていただきました事に、心より感謝申し上げます。
景代先生は、私たち指導員を育てるにあたり
<ただ1人>の人間を育てるという
視野ではありませんでした。
指導員が先生から学んだことや
体験したことを意識化、
言語化し、
レッスンで生徒のみなさんにお伝えすることで、
景代先生の<肉体>がそこになくとも、
その精神・心は
<法灯(ほうとう)>として
沢山の方々に伝えていくことが出来る。
――そうした大きな方向性と願いがありました。
今後、景代先生は、
<指導員>をつくらないことをおっしゃっております。
その為、私たち指導員が、先生から学ばせていただいたことは、
非常に貴重な意味を持つものとなりました。
長いレポートとなりましたが、
最後までお読みいただき有り難うございました。
合掌