広いベランダから 大きくたなびく鯉のぼりを 見上げる。
姉は、赤いヒゴイが好きと言い、
弟は、小さな青いコイがいいと言う。
僕は? 青いコイを弟に取られちゃったから、というより、
僕は大きな黒いコイがいいのだけれど、
口からそれが出ない。
なぜなら大きなマゴイは、お父さんのはずだから。
父が庭から見上げている。
姉が手を振る。
ちょうどいい風が吹いて、
黒いコイが水を得たかのように、
もんどり打ってたなびく。
大きな鱗が生きているように丸々と膨らみ、
布製の鯉のぼりは、ばさっ ばささっと はためく音も豪快だ。
額をあげた少し白髪混じりの髪を光らせ、
庭から、父が、満足そうに 僕らを見上げている。
きっと母は、台所で昼に食べるサッポロ一番を作っている。
我が家は いつも醤油味に決まっている。
父が好きだからだ。
弟だけは、塩味が好きといい、
特別に母がこしらえてくれる。
少し小高い場所に家があるため、
走り抜けられそうな広いベランダは、
さながら高見やぐらのようで、
富士山がくっきり見える日などは、
遠く向こうの街の果てを望むことができる。
いや、正確には、街は見えず、その果てにあるだろう
まだ見ぬ街に思いを馳せることができる。
どこか遠くに知らない街があって、
そこで僕は生きていくのだろう、と。
たぶん僕だけ、きょうだいの中で、
ただ僕だけが、ここにはいない。
ここから離れ、
これから行くだろう街のことを考え ている。
誰も知らない。
知られたくない。
知られたら、
不安ともつかない
この憧れが消えてなくなってしまいそうだから。
庭の中央に
植木屋さんから買った つげの木が一本、
女性的な丸みを持って居座っており、
密集した独特な葉が輝き、
庭への入り口には
松の木が枝を広げている。
父の好みは、日本っぽい。
メリーが吠えた。
父が、交通事故で びっこを引いていたと
拾ってきた野良犬。
なんの由来か、姉がメリーという名前をつけた。
「おーい、こっち」
父がニコンのカメラを向けている。
朝から単管のような金属のぶっとい柱を組み、
鯉のぼりを立ち上げるという大業を終え、
笑顔なのか、
眩しい日の光に顔をしかめているのか
ニコンに片目を当てた父が手を挙げて合図し、
僕らを捉えた。
埼玉県のとある辺りに雑木林の広がる木造二階建家。
ある晴れた日曜日に昭和の風を帯びながら
4体の鯉のぼりが空にたなびく。
パシャリ
この日、はためく大きな鯉のぼりを、
ベランダに並んで眺めている3人の子どもたちの写真が撮られた。
見上げるアングルとなっているのは、
父が庭から僕らを見上げて撮ったためだ。
その写真をベタにも
カーペンターズのイエスタデイ・ワンスモアにのせて、
幾つものエピソード。
結婚式の2人のメモリー映像なんちゃらで披露した。
白いふち取りも太い、少し汚れた昭和カラーに色褪せたその写真は、
そこはかとなく響くものを持った写真のようで、
僕らはお色直しで、その場にはいなかったのだけれど、
会場からは、「おー」とか「いい写真」
という声が聞こえていたよ、
と後になって妻の友人が教えてくれた。
結婚式には、不思議といい風が吹いたりする。
さっきまで そよとも吹かなかったのに、
その時になるといい風が吹くと、
同僚の知子がそう言っていた。
「きっと亡くなった家族や先祖の皆さんの魂が集まり、
風を起こして、一緒に祝福するからだと思う」
と。筋金入りのスピリチュアリストの知子が言う。
いつもだったら
「お前の思い込みだろっ」
と突っ込みたくなるのだが、
都合のいいことに、この時ばかりは、
「いいことを言う。そうかもしれない」
と思 った。
実際そうだったから。
友人や親戚の方々から
花びらの祝福を受ける石畳の道へ向かう時、
気にしていた小雨が止み、
青い空が雲の切れ目に現れ、風が吹いた。
あの日、家族でただ一人だけ、
遠い街を思い、生きていくものと思っていた、
そして実際にそうした僕だけれど、
今思えば
えらい勘違いをしていたものだと、
頬に触れる風を受けながらそう思った。
この国に生まれ、連綿と続く営みに連なる僕というものを
謙虚にも受け入れていた。
そんなこんなで、やがて子どもが生まれ、
父となり、享年52歳の父の年齢を越えることになった。
昭和の埼玉に生まれた
ごく普通の家族には、さして特別なことは起こらず、
気負うべき出来事もない。
ただ人が生まれて、生きて、死んでいく、
という間に起こる
愚かにも滑稽な日々が、
のんきに楽しく、
時に残酷に陽に浮かび上がったり、
消えたりしながら過ぎて行く。
その時々へ向かって
僕は呼びかけようと思う。
過去を振り返る訳ではない。
呼びかけることで
倍音を作ろうとしているのだ。
古来合唱などの場面で、
本来聴こえるはずのない
高い声が聴かれることがあり、
それを天使の声と
神秘的に語られていた時代があったらしい。
それだ。
ベルヌーイの波動方程式の解やフーリエ級数理論が見つかる前、
人々は、きっと本当に天使が歌っている
と思っていたに違いない。
難しい数式は、僕には、使えそうもないが、
今を生きるための音が見つかるまで、
セッションを繰り返してみればいいと思っている。
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