「あの人は、自分が見えていない」
「自分で気づけていない」
などと
人を評価する立場になると、
ついつい口にすることがある。
僕も含め、ほんとうは、気付けないのは誰も同じなのだけれど。
時々思う。
経験と年齢の分、
親になったり、役職についたり、ネットワークが増えたりと、
役まわりが増えただけであって、
自分の本質は何も変わっていないと。
学べば、学ぶほど、
無知であることがわかり、
それは 知識や教養を学ぶという
知らないことを知っていく喜びにつながっていけるけれど、
もっと本質的な、「我を知る」という
自分に見えていないもの、
気づけていないものに気づくことの難しさは、
それとは、また別次元のことに思う。
座学での学習だけで、
どうこうできるものとは思えないからだ。
こうした実感は、
NAYヨガスクール東新宿教室で
景代先生のお話やご指導から体感として学んだ気がする。
実は、娘に気になることを言われた。
「パパのお友だちが 訪ねてきた夢を見た」
ふいにそう言われ、気になったので
「どんな人だったの?」と聞いてみた。
「う~ん、パパと同じ髪型をしてた」
昨日、数年ぶりにかかってきた 友人からの電話を思い出した。
彼のことだろうか?
けれど 心のどこかで違う、という気がした。
随分少なくなった僕の髪型とも似ていないし、
そもそも娘は彼に会ったことがない。
そう思った途端、
心のすみで黒い影のようなものを感じた。
そうなのだ。
それが僕の「影」のような気がしたのだ。
いったい何を伝えに来たのだろう?
僕は、それで、やはり、いつも思う。
前向きで美しいものを求めて、
正しくあろうとして、
きっとそうなれていると 気を緩めて傲慢になると、
その度に 引き寄せる影の姿を。
(戦争という非日常の事象が、また多くの影を生み出す。
プロパガンダを借りながら、
互いに互いの影を投影し合う。)
こころには、
目に見えなくとも 姿かたちがある。
こころの法則 というものがリアリティを持って 立ち現れることもある。
そうして、時々、こうしたさざなみのような不安感が、
押し寄せて来る。
けれど それも、こうして書いている時は
引いていく。
だから書くのは好きだ。
僕を助けてくれるから。
僕は、まだ始まってはいない。
ふいにそう思った。
まだ始まっていないと。
影が それを 伝えに来た気がするのだ。
もう 終盤を迎えているかのような 勘違いをしている僕に、
まだ物語が生まれていないと。
すでに姿を消した影。
表情の見えぬ その顔を知るには、
道具が必要だろう。
ただ待っているわけにはいかない。
道具を磨き、準備を整えておこう。
そう考えてみたら、
ふと 理由の片鱗が見えた気がした。
父の死んだ歳に近づき、
超えたあたりから、
僕の身の回りに起きた変化。
体調不良や
緩やかに踏まれて行く活動へのブレーキ。
そして停止。
時間をかけて
ゆっくりと取り組んでいこう。
ひとつのシーズンが終わり、
また緩やかに
次なる始まりは訪れる。
娘は、今、
糸を吐く蚕に夢中で、
家で飼っている。
裏の野原で採ってきた
青々とした桑の葉を 蚕のいる空き箱の中に与え、
モリモリと美味しそうに食べる白い蚕。
ふうふう 白や黄色い糸を吹いている。
蚕は、意外と可愛くも思え、
キラキラと光る美しいきれいな薄い皮膜のような繭の中、
頭を振り、せっせっと糸を吹き、紡いでいる。
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