10年以上勤めていた仕事を辞めたのは、30代の半ばのことだった。
経験が長くなるにつれ、
仕事の内容のステージも変わり、
求められることも増え、立場も変わった。
当然の流れではあるが、
そもそも成り行きで始めた仕事を
惰性で続けていただけの僕にとって、
それは 不愉快な展開以外の何物でもなかった。
しかし、
さりとて出口もなく、
気がついた時には、
家の財務状況が悪化。
逃れられぬ状況となっていた。
不幸は連鎖するのか、
職場環境も 日に日に悪い方へと進み、
一時期は、
もはや朝、起き上がるのも困難な状態となった。
「サラリーマンの流す血の涙とは こういうものなのか」
と思いつゝ
僕は、心密かに
「これは 父の呪いなのかもしれない」
と思った。
亡くなる少し前の父は、
休職し、家で療養していたようだった。
(僕は、別居していたため、その姿と共に はない)
家に戻った時、
父が西日のあたる庭先の部屋で、
椅子に座り、難しそうな雑誌を読んでいた姿を思い出す。
確か「プレジデント」という雑誌で、
会社経営者などが読む類のものらしいことは何となくわかった。
「何で病気になっているのに
社会のこととか経営とか、
そんな自分に関係のないものに
興味を持っているのだろう?」
訝しく僕は思い
「それ、面白いの?」
と聞くと
父は、まあ、とか うん、とか生返事をした。
あまり楽しそうにも思えない。
「そうか、仕事を休んでしまっていても、
きっと社会や仕事と繋がっていたいんだ。
ずっとそうしていたから、
急には、離れられないに違いない」
僕はそんな風に、
父の姿を理解しつつ、
どこかで馬鹿にもしていたように思う。
「そんな風になりたくはない、
それって
自分とは違う誰かになることみたいだ」と。
「だからその呪いだ。
呪いにかけられたのだ」
次から次へと 悪いことが重なった。
仕事でも窮地に立たされ、
家庭でも 凡そ不幸らしい不幸がパッケージとなって相次いだ。
不動産屋さんに相談して、詐欺まがいの融資計画をしてでも
僕は、父の家を守ろうとしたのだが、
銀行に見破られ、あえなく計画は頓挫し、
家は抵当に取られることになった。
それが35才の時だった。
僕はといえば
凡そ だらしなく、
普通に考えれば、
結婚して 家庭を持って自立していてもおかしくない年であるのに、
独身で、
母と、出戻った?子連れの弟と
雨漏りの下にバケツを置き、
野ネズミの巣食う 父の建てた実家に
息を潜めるように暮らしていたのだった。
そして、取り壊しのその日は淡々と訪れた。
父の建てた家と別れ、
父の子として生きていた僕ともお別れをするのだった。
高台にあった家は消えた。
夜、木材の破片の幾つかと、
キャタピラの跡が地面に残る暗闇の中、
へし折られた柿の幹だけの屹立する更地を見た。
柿の木は、
当時、小学校でよく見られた植物の販売会で、
姉が購入して植えたものだった。
僕は、生ぬるい風の匂いのする闇のなかの更地を見ながら
悪びれた様子もなく、
長男であるゆえの心の痛みなど 実のところ何もなく、
妙にサバサバとして、その場所に佇んでいたのだった。
別れの言葉など使わなかった。
陽のひかりのなかで、
「どこへでも行く、誰とでも交わる」
と 何度も何度も
ただ思いついた その言葉を吹きこぼしていた。
拭い取りもせず、ただそう語り続ければそれでいいと。
しばらくして、僕は、ひょんな流れから広い家を手に入れ、
ひとりで暮らし始めた。
日当たりのいい家というものが
こんなに暖かく、気持ちに希望を灯すものだということを 初めて知った。
陽の光を浴び、
うつのような症状が回復するにつれて、
問題も解決していった。
暮らし始めた家の庭先に
春に咲く 黄色い福寿草の花を見つけると、
僕は、古い殻を脱ぎ捨てるように仕事を辞めた。
36才になったばかりで、
決心など何もなく、
ただ殻が抜け落ちたのだった。
「どこへでも行き、誰とでも交わる」
と言いながら、
けれど誰とも交れぬ僕がいる。
道を歩き、
木々を見上げ、
鏡の中の僕へ。
夜の道で、街燈に向かい、空の雲を見て、
人以外のありとあらゆるものに
「生まれてこなければよかった」
と、伝えてみた。
声が大気に溶けて響いた。
時に涙もこぼれたが、
それは感傷的な遊びとは 種の違うものに思えた。
言葉には、
吸い込まれて消え入るだけの
無意味な虚しさはなく、
空間に届き、
響いている気がした。
それで
「生まれて来なければよかった」
と自涜のように繰り返し、
繰り返し語りかけた。
この世に生まれ、現れた言葉で。
いくつも年を重ね。
この歳まで生きて、
まだ、誰かに会おうとして、
誰にも会えずに生きて、息をしているから、
そう伝えても いい気がした。
いや、そう言葉にして、
誰かに会おうとしていることに
生まれて初めて
気づいたのかもしれない。
だから
言葉が生まれようと、
駄々をこね、もがいている子どものように、
そして、ようやく初めて言葉を手に入れた子どものように
「生まれて来なければよかった」
と声を響かせている。
そう、僕は、生の限りに、生まれ変わろうとしているのだった。
僕は、そのことを
景代先生には語らず、
ただいくつかの詩の数篇のような言葉に変えて、
レポートにしてお伝えしたのを覚えている。
だからこの事実は誰も知らない。
思い出した。
「太陽へ向かう詩」
という今となっては、少し恥ずかしくなるようなタイトルだった。
こうして
「生まれて来なければよかった」
という言葉は、
言葉の紡ぐ布のひとつの綾となって、
ただの僕の生に織り重ねられていくのだった。
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