大きな海の中で、枠に入ったままの青い魚
NAYヨガスクール体験記 46
                     小林和之
直線上に配置

旧荒川


「あなたは今、
喪失のテーマを
生きています」


いつだか景代先生にそう言われたことがあった。

以前の体験記でも書いた
「アニマへ捧げる詩」を書いた前後のことだろうと思う。

ただ、それが何をさして言われたことなのか、よく憶えていない。

当時感じていた喪失感というものが、なんであったかすらも。

たぶん、若い人特有のセンチメンタリズム
と言えばそれまでのものなのだろう。

けれど、当時の僕は、
自分の力ではどうすることも出来ない、
わけの分からない喪失の思いに苦しめられていた。

今は、
あの頃の喪失感とはちがう、
新たな喪失の思いが、
最近ちらちらと近づいて来る。

足音もたてず、
その人は、
何ひとつ話しもしない。

ただいつまでもあの日のままだ。

30年も前に亡くなった父が、
無言のまま、あの日の風景のなかにいて、
何かを僕に語りかける。

父の死んだ年齢に日に日に近づいていく自分。

「まだ用意ができていない。まだ待ってくれ!」

と僕は言いたくなる。

いったい何を待ってもらうのか? 


仲のいい家族とは言えなかった。

父と僕との関係も。

短気な父ゆえ、
物心ついた頃から僕は、
父のことが苦手で、
ただこわくて仕方のない存在だった。

「父も、僕のことを嫌っている」

そう思っていた。


そして僕は、
しだいに自分のこころをあまり表に出さない子どもになっていたと思う。

ほんとうのことは
言わない。

いや、言えない。

こころを隠している子に。

そんな僕だったが、
一度だけ、父にお願いごとをしたことがあった。
これは誇張でもなんでもなく、
ほんとうにただこの一度きりのお願いだった。

その日、開いた新聞の記事に、
旧荒川という未知の川の写真が載っていたのだ。

原始林の間を縫うように流れるどんよりとした川の白黒写真は、
当時小学6年生だった僕の冒険心をうずかせた。

《・・・古代から、そこには多くの魚たちが生息している》
記事もうまく、
魚釣りの好きだった父に、
僕は、その記事の切り抜きを見せて
「連れて行ってほしい」と伝えた。

そして父は、なぜか他の兄弟たちは連れて行かず、
「記事を大事に切り抜き、伝えたから」と、
僕だけを連れて、旧荒川へ行ってくれたのだ。

電車とバスを乗り継ぎ、
行ったことのない川へ。

農道を過ぎ、土手沿いを歩いていった先の森のなかへ、
僕らは分け入った。

鬱蒼とした木々の間から水の流れが見えた。
旧荒川だ。
ドキドキしながら近づいていった川沿いには、
他の親子もいて、僕らが通り過ぎようとすると
「あ〜、うちの坊主がそこでうんちしたから、気をつけて歩いてください」
と言われ、少し気が抜ける。

しかし旧荒川は、僕の期待を裏切ることはなかった。

沼のような川面が盛り上がって動き、
いくつもの波がぶつかり合っている。

はじめ、僕は、それが何かわからなかった、
けれど、気づくとともに大きな声で言った。

「魚だ! 魚がいるんだ。川が浅いから波立つんだよ」

沼のようにどんよりとした川なので、
魚影は全く見えない。

なかなか釣れなかったが、
やがて、父の竿にかかった。

大きくしなる竿の向こうに顔を出した魚は、
驚くことに金色に輝いていた。
力つき、タモにすくい入れた魚は、
ナマズのような肌にいくつかの金色に輝く丸い鱗が張り付いた
見たこともない魚だった。

「お父さん、これなに?」
「見たことないな」
「きっと鯉とナマズの間の子なんだよ」
「そうかもしれない」

僕は興奮して、
逃がすか、持ち帰るかを問う父に
「持ち帰る」と言った。

森や川を見下ろす夕暮れの土手沿いを歩いて帰る途中、
地元の人とすれ違い、
父が、魚籠を見せると
「これはドイツ鯉だ、この辺りには棲んでいるんだ」と教えてくれた。
僕は、魚の正体を知って少しがっかりした。
けれど満足だった。

父とふたり冒険をしたみたいでうれしかったのだ。

 その日から6年後、父は、大病をして亡くなった。

その記憶の向こうの父が、
無言で、僕に語りかける。

父の亡くなった年に近づいていく僕に。

亡くなった父の年を越えてしまったら、
いったい僕は誰になり、
父は、誰となるのだろう? 

時が過ぎていく、
という、のしかかる時間の重さに息が止まりそうになる。

・・・僕の中の少女。


僕の中の純粋。


僕の中の社会不適応者。


僕の中の鬼。


僕の中の・・・・。


僕は、
僕の中の他者たちと対話をしていきたい。


知りたい。

僕というものを。


こころの秘密が
そこにある気がして、
隠されたこころがそこに埋もれている気がして、
僕は目を閉じる。


そうすれば少し楽になる。


過ぎていく時間の重さに
押しつぶされぬように
対話を試みよう。


 この冬、
ちょっと不思議なことがあった。

旧荒川。
父と来たあの日の川へ、
この冬、僕は、それと知らず通い続けていたのだ。
同じ名前だとは思っていた。

けれどここがあの日、
父と一緒に来た旧荒川とは、思わずにいた。


旧荒川は、埼玉県の指定する銃猟区なのだ。

僕はそこへ通い、獲物を追っていた。

人気もなく、風もやんだ
旧荒川のほとりを枯れ葉を踏みながら歩く。

猟期の終わるその日、
僕は、ここがあの日、父とふたりで来た場所であると知った。

ふたりで歩いた土手沿いの道、
その向こうに見える森、
沼のような濃い川の水色。
見晴るかすあの日の田園風景とは少し変わっていたが、
確かにそうだ、
驚いたことに、
ここは、あの日、父と来た場所なのだった。

あたたかい懐かしさに包まれる。
僕はそれと知らず、この場所へ引き寄せられていたのだ。

猟期最終日は、
よく晴れた風のない日だった。


僕は、川幅の広い、旧荒川のほとり、
敷き詰められた枯れ葉の上に座り、
仰向けに寝転んだ。

木々の枝が冬の空に広がっている。

 父に向かい、
僕は、今まで誰にも言わなかった
こころの堆積物を掘り返すように言った。

「自転車を買って」と。

小学生の頃、
変速ギア付きの自転車が欲しくて仕方のない時期があった。

けれど僕は、我慢をして欲しいとは言わなかったのだ。

夜、眠る前に父に聞かれ、
僕は「いい」と、
自分のこころとは違うことを
伝えたのを憶えている。

たぶん父に気を使い、
遠慮をしたのだと思う。

なぜだかはわからない。

そのまま何十年も
こころに埋もれていた声が、
思いがけず、掘り返され、
声になっていた。

もうすぐ芽吹くだろう、冬の木々の森に埋もれながら、
僕は、馬鹿のように
「自転車を買って」と、
ひとり繰り返しているのだった。

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※※追記;

 内藤景代 記

こころの深い「層」に
生き続けている、

【元型的なイメージ(アーキタイプ)】のひとつ、

〔永遠の少年〕のイメージは、
ユング心理学の概念です。

「精神の春」の母型的なイメージもあります。

このイメージにとりつかれると、
「少年らしい魅力を持ってはいるが、
 現実と向き合っていくことができず、
 大人になりきれない人間像。

 芸術家などに多い、
 【元型】的なイメージ」になりやすいようです。

女性の場合は、〔永遠の少女・乙女〕。

〔永遠の少年〕的なイメージについてくわしく書いた本は下記です。


『冥想』こころを旅する本 マインド・トリップ
 こちらへ


BIG ME     こころの宇宙の座標軸』

 内藤 景代・著 復刊版・NAYヨガスクール刊 こちらへ

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