大きな海の中で、枠に入ったままの青い魚
NAYヨガスクール体験記 43
                     小林和之
直線上に配置



 僕の家族の人。
父を思うとき、
いつも、ひとつの風景のなかに彼はいる。

線路の脇にある側溝を覆うコンクリートの上を歩いているのだ。
田舎だった。
農地が広がり、西武線の線路に柵などはない。

僕たち家族はいつも、日曜日になると留守番に母を残して、
少し歩けば、すぐに広がる田園の中へと散歩に出かけた。

その日は線路のあたりを遊び場に、
めいめいに散らばり、
僕は、ひとり歩いたり、
虫探しをしたあと、
線路脇の側溝のコンクリートの上に座った。

向こうの方から、
盛り上がって少し高い線路の上を、
父が歩いて来る。

風が渡った。
黄葉の美しいポプラの木の並ぶ田園の世界に、
いい匂いのする風が吹き渡る。

木々は揺れ、
線路を隔てた野原で、
兄弟たちは遊び、
父はやはりのんきに歩いている。

僕は、
今しがた流れていった風とともに風景たちに溶け込み、
美しい世界に浸っている。

風がやんだ。

雑木の森の方から、
いっそう静けさを増すように、
からからと落葉の降る音がしている。

木々の上の方を、透明な風が通り過ぎたのだ。


 僕は、ここにいる。
みんな、どこにいるのだろう・・・。

僕はここでこうしているのに。

そうひとりで思うと喜びが込み上げて広がり、
僕と僕のいるこの世界が、
ほんとうにひとつにつながっているような気がした。

美しい世界に抱かれ、
まるで幼子のように、僕は満たされ、
落葉の香る田園の姿に溶け込んでいるのだ。

ただひとつのこころが、線路の脇に座って。

「僕は、死んだら・・・、どうなるのだろう?」

 こんな満たされた思いのあとで、
なぜ僕は、そんなことを考えたのだろう? 
それは、10に満たぬ僕が、
はじめて死について思った瞬間だった。

それは考えてはいけないことだったのだろうか。


 僕は、目を閉じた。

これから幾度となくおののき閉じられることになる目を。

大きな闇が現れた。
その闇に僕は、吸い込まれ、死というものを見たのだ。

この世から、
僕という存在が消え、それも永遠に消えてしまう。
いつまでたってもよみがえることはなく、永遠に失われてしまう存在。

この世どころか
天国や地獄などという
死後の世界すら消えてしまう。

永遠の無。

もう二度とこの世にあらわれない意識。


そして僕は見たのだ。

死の向こうに
永遠の無の闇が
横たわっているのを。

 内臓が爆発して、青い空が激しく揺れて暗転した。
たとえようもない恐怖と絶望に、
よろめいて、僕は手を付き、
窒息寸前の息も出来ぬ状態であった。

 向こうから父が歩いて来る。
線路の上を歩いている。

父を見て、僕は思った。

「この人も、やがて死ぬのだ。
     そして永遠になくなる」

 さっきまでと何も変わらぬ風景の中に、
僕はいて、家族たちもいる。

父が、僕のいるほうに歩いて来る。
そろそろ帰ろう、と言う声が聞こえる。

 父を思う時、
いつも、はじめて死を思った美しい田園の風景たちが、
妙なコントラストでこころに残されているのを知る。


この日の出来事は、
誰にも話さず(せず)にいたのだが、
十代の終わりに
二人の人間に話した。

ひとりは、
十八才の旅の途中に出会った人で、
自称芸術家、
そして何と救世主でもあった。

彼は、僕が誰にも相談できずにいたこの日の体験を
はじめて話す人になった。

それは、僕にとって、長らく内に秘めていた悩みが
はじめて受容されることでもあった。

彼はそれを、
「稀有な体験
・選ばれた特別な人間のみが
感受することが出来る価値体験」
と言った。

コンプレックスだらけだった僕は、
そうだったのかと、
長い死の悩みの受容とともに、
すがりつくようにそれを信じたのかもしれない。

もうひとりは、
景代先生だ。

その後、精神状態を大きく崩すことになった僕が、
最後の切り札のつもりで、
いかに自分が特別な存在であるかを伝えるため、
この日の体験を手紙にしたため、
NAYヨガスクールの教室へ送付したのだ。

結果、
しばらくあとで返事が届いた。

代筆の指導員からのもので、
内容は、
ミヒャエル・エンデの作品にも
主人公が同じような体験をしているものがあり、
決して特別なものではないこと、
それに付け加え、
僕と同じように
ニヒリズム(虚無感)と葛藤している仲間が
教室には多くいることが書かれていた。

永遠の少年である僕は
がっかりし、
同時に頬を張り飛ばされて
我に返ったのだ。

だが、それは一時のもので、
ほんとうの葛藤は、
この後、恥を忍んで教室へ行く選択をした
僕の身に起こる。重い話だ。

それになんと恥ずかしいことだろう。

こころの恥部を語り、
向き合うこと。

僕はニヒリズムを越えているとは思えないが、
少なくとも武器を持って
向き合うことは出来る。

武器とは何か? 
恥部を語る
勇気だ。

それは、
僕の失敗、
僕の愛。

恥ずかしながら、
あの日、
線路の脇に座っていた僕という存在への、
愛だ。

青春を生きるのに失敗した子に
残された言葉をさがそう。

あの日の透明な風よ、
また手伝ってほしい。 


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 ※追記

〔永遠の少年〕とは、ユング心理学の概念です。
「少年らしい魅力を持ってはいるが、
 現実と向き合っていくことができず、
 大人になりきれない人間像。
 芸術家などに多い、【元型】的なタイプ」

 そのように、
〔普遍的な、よくあるタイプ〕
 とくくられるのは、
 違和感があるひとが多いです。

 和之さんも、そのひとりです。
はじめは、〔永遠の少年〕と自分を知ることに、ショックをうけ、
しだいに、〔永遠の少年でもある、自分〕を受け入れて、
自分と仲よくして、「器(うつわ)の大きさ」が、
育っていきました。

それが、この3年以上つづく、
和之さんの「NAYヨガスクール体験記」のポイントでしょう。

まだ幼い自分の息子さんをふくめ、
たくさんの〔永遠の少年〕たちに、
〔愛と勇気〕をもって、
ご自分の体験談を伝えていらっしゃるのだと思います。

女性の場合は、〔永遠の少女・乙女〕。
〔永遠の少年〕についてくわしく書いた本は下記です。


BIG ME     こころの宇宙の座標軸』

 内藤 景代・著 復刊版・NAYヨガスクール刊 こちらへ

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