大きな海の中で、枠に入ったままの青い魚
NAYヨガスクール体験記 40
                     小林和之
直線上に配置

鎮魂歌



 ふたりだった。

いつもふたりで。
世界を見て、
誰も必要とせず、
恐れも知らず、
そして名も知らぬまま、
いつまでもふたりでいた。

ふたり。

この美しい呼びかけに応える魂。

それは、他ではなく、
自らの身の内に宿っていた。


 この頃の僕は
いつもひとりで、
恋人と呼べる人はいなかった。

だから僕が、誰と一緒にいたのか、
知る人は誰もいない。 
 

 見上げる木々の枝は空に消えた。
ふたりは見えない雨にぬれている。


 就職し、
しばらくして落ち着いた26才のとき、
僕は、喪失の思いを、
わけの分からぬ詩のような言葉に綴り、
景代先生にレポートにしてお見せしたことがあった。


景代先生は、

「ある時期・・・
〈蒼い時〉の
アニマへの
鎮魂歌(レクイエム)ですね。

そして再び陽は昇る、
夜は明ける。

「新しいアニマ」と出会う時が来ます・・・」



という言葉を
返却して頂いたレポートに書き記してくださっていた。
わけの分からぬ喪失に苦しんでいた僕にとって、
それは、何よりもうれしい言葉だった。 





 魂(アニマ)ヘ捧げる詩


 さらば、
純粋で乱暴な原始太陽よ。

あなたと生きた
素晴らしい日々を忘れない。

嘘つきだらけの社会に
自ら組み込まれていく
つまらぬ人々を、
よくふたりで笑い物にして、
いくつもの季節を通り抜けた。

夕暮れの匂いを今でも思い出すよ。

誰も黄金の僕たちに近づけはしなかった。

 見上げる木々の枝は空に消えた。

ふたりは見えない雨にぬれている。

 けれど、そんな暮らしに、ツケが回ってきたのだ。

さよならだ。

もうあなたとともに生きていくには重すぎた。

異物を排除しようとするたくさんの目が、
(わたしを見るの・・・)
隣に狂気や死を持ってこなければ、
もうあなたとともに生きていくことはできなくなっていた。

それでも僕は、やろうとしたよ。

(目が見えないの・・・)

しだいに薄らいでいく
あなたを見ているのはつらかった。

時々変なことを口走るようになったり、
風は冷たく、目に映る風景たちもひどくかわいて見えた。

冬の朝、
あなたは古い歌とともにガラスの模様になった。

あなたが僕に見せた最後の姿だ。

そしてあなたは深い海の底へ、
暗い雨音のひとつぶひとつぶに。

僕はバチがあたって、
ひとり路上に取り残されていた。

色をなくした世界に。

あなたを失ってからのあの日々は、
いったいなんだったのだろう? 

まるで人の世の闇のような。

箱のような部屋で息をし、
知らない街の人々を訪ねて回る。
(僕はその頃、アルバイトで世論調査員をしていた)

盲目に社会に組み込まれようと、
うまくいかない生き物が鳴いている。

帰る場所をすっかりなくした異生物が、
その昔、大切なものを奪われまいと、
必死にもがき抗った社会に、
今は姿も変わり果て、
盲目に融合しようとさまよう。

今でも思い出すよ。

どこで見たのかもわからない路上を、
錆びたポストを。

閉ざされた窓の家々。

異形の身障者の住む部屋。
寝たきりの老人のアパート。
世話好きなおばさんもいた。
諍いとなった番犬のような下宿の管理人。
目が見えなくなるという黒目の白濁した造船所の職員。

あわれ、目には見えぬ主の飼い犬たち。

穏便に葬られている不幸な人々。

僕は、ほんとはもうわかっているのだ。

誰のせいでもないということを。

僕は影だ。

真昼に浮かぶ
微笑みの世界に立ち尽くす
ひとつの影なのだ。

だから帰ろう、
この暗いぬくもりに叫んで、
僕は生きたいのだ、と。
負けるつもりなんてさらさらないんだ。


僕の魂(アニマ)は、
この世にあふれていくために使われていくのだから!
 

元気かい?

 あなたがいなくなって
しばらくは呆然としていたけれど、
今はなんとかやっているよ。

実は一度だけ、
幼い子に姿を変えたあなたの声を聞いた。

暗くよどんだ空の下を、
大きな不安とともに、
ひとり歩く僕に、
「帰ろう!」と
必死に呼びかけていたのを。

ひとりでは歩くこともできない盲目の少女が、
姿も見えぬ闇の底から、
誰よりもえらそうに呼びかけているのを。

僕は応えなかった。

少し時間はかかるけど、
またふたりで、
夕暮れの多摩湖を走ろう。

今は見えない雨にぬれている、
君を連れて、僕は帰る。
その時を楽しみにしている。




 あの日の言葉を書き写しながら、
僕は、あらためて、
運がよかったのだ、と思う。

教室とつながり、
景代先生に出会えたことで、
救われ、恵まれた青春期を過ごせていたのだと。

いったい誰が、
支離滅裂
(これでも少し手直しをしている)で、
こんな不可解な内容の声に
耳を傾け、
理解を示してくれるだろう。

無意識的で、
自我が弱く、
言語化の苦手な僕の言葉に付き合い、
日の当たる場所へと導いてくださった。

 そのおかげだろう、
僕はといえば、未だに野望が消えることはない。




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 ※追記

〔たましい〕の物語。

魂(アニマ)の喪失と別れ。

【みたましずめ】鎮魂。

和之さんは「魂(アニマ)」を殺さなかった。

青い春、
青春が終わるとき、
青春を葬ると同時に、
自分の「魂(アニマ)」も死なせてしまうことが、
むかしから多いようです。

「死と再生」という言葉が残されているように。

殺す必要はないし、
死ぬ必要もないのに…。

いのち(命)の連続性のように、
「魂(アニマ)」も、姿かたちをかえて、
生き続けていくのですから。

「ふたり」。
人生に伴走してくれるのが、
そのひとの「魂(アニマ)」。

わたしは、そう思います。

花は枯れても、
花の下の「子房」がふくらみ、実を結びます。
キュウリや、ゴーヤは、
帽子のように先端に、
黄色い花が残っています。

「青春のしっぽ(尻尾)」のような、
黄色い花。

枯れていても、実とつながっています。
カラスウリ(烏瓜)の青い実も、
白い花がついています。
今、NAYヨガスクール教室の正面に2個、
飾っています。
うち(自宅)で咲き、収穫した、花付きカラスウリ(烏瓜)の青い実です。
秋には、森を照らす紅灯のように、赤くなるでしょう。

「死と再生」というよりは、
《錬金術的な、変容=メタモルフォーゼ》による、
「再生=ルネッサンス」という言葉のほうが、
・・・「魂(アニマ)」は、喜ぶのではないでしょうか。

紅灯のように、赤くなるカラスウリ(烏瓜)の
白い花からの変容(メタモルフォ−ゼ)のように。

鎮魂。
「魂(アニマ)」は、喜んで、
時を待っているように思います。

内藤 景代・記
          
          
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