時が過ぎていく、
という事実に、
ときどき出会うことがある。
せわしない毎日に追われ、
腕時計に刻まれていく時間以外に、
時の尺度を持たないでいると、
いつのまにか忘れてしまう。
どこかへ置き忘れて行ってしまう。
そんな大切な記憶がある。
もし何かのきっかけで、
大きな揺り返しとともに思い出してしまえば、
どうしようもない思いに、
そのまま僕は、連れ去られてしまうだろう。
自分の存在そのものでもある、
大切な記憶たちが、
こころのどこかに埋もれている。
けれど、それを取り戻すときが、
僕にもある。
亡くなった人の命日に、お墓参りに行くときだ。
かくされた記憶たちが、忙しい日々の向こうに、ほんとうは今もある。
亡くなった人の命日にそれを思う。
時が過ぎていく。
それを思うと、
ときに死に近い、くらい穴をのぞき込むような、
途方もない気持ちにもなるけれど、
同時に、ほんとうに大切なものも、僕に教えてくれる。
人と、時をわかちあい、
心をともにした、ということ。
いつもうまく言えないけれど、
僕はそんな思いを連れて、
今年もひとり、お墓参りへの道を歩いた。
それは梅雨の日の晴れ渡った昼日中、
電線の薄い蔭に宿り、白い塀にあたる陽の光に姿を変えている。
遠い声に振り返ったお寺の裏のアスファルトの道の途中、
懐かしさに似た喪失が、風鈴の音になって響いて消えた。
初夏の風が吹いている。
どこからだろう悲鳴のような声が聞こえる。
しばらく歩き、金網越しに見れば、
高級そうなテニスクラブのコートの中で、太った中年女性が、
懸命にラケットでボールを打ち返していた。
その姿よりいっそう、
「まだよー、まだ力は残ってるよー」
と叫ぶコーチの女性の掛け声がリズミカルでおかしい。
坂道を下り、やがて、校庭で遊ぶ子どもたちの声が聞こえた。
青々とした八国山の麓から聞こえているのだ。
良いことも悪いこともたくさんあった時期をこの街で過ごした。
(悪いことは、たいてい自分によって来たるもので、
良いことは、ほぼ教室で、景代先生のご指導によってもたらされたものだった)
初夏の風にしては生ぬるく、暑い午後に、
僕は、耳を澄ますように歩きながら、
しばらく会えずにいた、時の流れに満たされる。
そして、懐かしみにとっぷりと浸かり、
身をゆだね、
風景に宿る声たちを聞こうとしている。
日々の暮らしから離れ、ここへ来た。
時は、ゆっくりと流れ、
八国山のなだらかな丘陵にさえぎられ、
僕のこころも、からだもすっかりかくされていく。
今年もまた、北山公園の菖蒲の花を見に、
話さぬ祖母を連れて歩く。
木道の上を、制服を着た施設の職員さんが
車椅子に乗った老人たちを押していた。
老人たちに混じり、幾分、若く見える男性たちは、
きっと心をお病みになった方々なのだろう。
東屋の下で、菖蒲の絵をスケッチしている。
やわらかに咲き誇る薄紫色の菖蒲の花を。
話しかけている職員の女性の横顔が、
とてもさわやかで、淡い色の菖蒲の園によく似合っていた。
帰りに、風鈴の揺れるおいしいうどん屋さんで、たけのこうどんを食べた。
ラケットでボールを返す音が、遠くでまだ聞こえる。
コーチは正しい。
そう、まだ力は残っている。
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※追記:
「ひとりになる時間」でなければ、
あじわえない、豊かな感覚‥‥というものがあります。
今、社会的な役職が、また上にあがり、超多忙な、和之さん…。
〔「ぼっち」になれる時間〕は、貴重でしょうね。
内藤景代・記
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