大きな海の中で、枠に入ったままの青い魚
NAYヨガスクール体験記 36
                     小林和之
直線上に配置




ひとり。
話し相手のいない旅。

通り過ぎるトラックを「うらやましい」と思う自分。

見渡す広い草原ばかりの地で、
僕は、毎日、不安とともに眠る場所を探している。

どこにいても追いかけてくる過去の恥ずかしかった出来事は、
こころの底からボコンッボコンッと音を立て、僕の顔めがけて吹き上がる。

一人旅。

ところ変われど、
人変わらず。

僕は、自分がうそをついていることを認めざるをえなかった。

一人旅なんてかっこいいものじゃない。

自分を見つめ直すなんて大うそで、
ほんとうは、それはないことにして、
しまいこんでいた真の自画像に苛まれ、苦しめられている。

今までの自分を捨て去るつもりが、
追いかけられ、どこへ行ったって逃げられやしない。  

僕は、海を見続けていた。

最北端を後にした僕は、
海岸線のダートを走りながら、
眠る場所を探しに、砂浜へ降りたら、
そのままバイクの後輪が砂に埋もれ、抜け出せなくなってしまった。
それで他にすることもなく、ただ海を見ている。

 子どもの頃、あんなに美しく夢を描けていた遠い空から、
すでにもう色は失われ、つまらなさしか感じない。

僕はまた、こころのなかでつぶやく。

「子どもの頃はこうじゃなかった」と。


海と空を見ながら、
僕は、「このまま死んだら……」と思った。

本気ではなかったが、考えてみたのだ。


「僕は、きれいに死ねるだろうか? 

誰かのこころに美しく映るのだろうか?」と。


そう思うと、センチメンタルな情感が込み上げてきた。
自分という実像とは違う、
人の目に映るだろう虚構の自分。

僕はそんなものを何となく考えていた。

遊びのつもりだったこのセンチメンタリズムは、
やがて、
……今で言えば、リストカットをしなければ、
自分の存在を感じられない少女のように……、
僕のこころを浸食していく。

僕もまた、感傷の中でしか、自分の存在を感じられないのだった。

はじめ、それは「違う」と思っていた。
ホンモノではないと。

ホンモノの感動。

ホンモノの、自分が自分であるという存在感とは、違うモノだと。

僕は、たぶん、「ほんとうの自分になりたい」と思っていたのだ。


「自分探し」という言葉もまだなかった頃。

けれど、こうしたことを思う似たようなタイプの人は、
多かったと思う。

なぜなら、その後、
有名になっていくいくつかの新興宗教団体が、
この時代の前後に立ち現れていた。

真実なるものを求める
永遠の少年タイプの若者は、少なくはなかったのだ。


波が、打ち寄せていた。

僕がここにいることを誰も知らない海で、
僕は、死を思い、
ひとり、人の目に映るだろう虚構の自分を生み出そうとしている。

そんな不健康で病的なセンチメンタリズムが、
僕のこころを浸食していく。

誰もいない海で。
誰も聞いていない波の音とともに。

僕は、それが不器用なコミュニケーション
とは知らない。

それが、人を求めるこころ 
とは、
まだ知らない。

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 ※追記

「行きつ戻りつ・・・こころの旅..............」

今回の和之さんのお話は、前月35回の続きです。

1990年代の終わり、
「世紀末に、世界が滅亡する」
という予言を信じている人が多かった1990年代のお話です。

以前の「北海道へ向かったバイクの旅」の続きです。

↓↓↓↓

和之さんの「NAYヨガスクール体験記 30 
 「18才の旅 -2」に、つながっています。こちらへ


                       内藤景代・記

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※※※追記:


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