大きな海の中で、枠に入ったままの青い魚
NAYヨガスクール体験記 25
       小林和之
直線上に配置

こころの化学反応   

教室は、不思議な場所だ、とよく思う。

僕は、教室で何度も生まれ変わり、

古いこだわりという服を脱ぎ去るように、

素直な自分の姿というものに

気づかされていったと思う。

 

こころの成長には、

蚕が繭をつむぐように、

山でしか咲かぬ花や、

きれいな水質環境がなければ育たぬ魚のように、

素直なこころでいれることが必要らしい。

 

そしてそれは

人とともに共有されていることが望ましい。

教室はそうした場所だ。

今まで芽を出すことのなかった 

こころの種が、

いつのまにか育ち、

花を咲かせている。

 

「わたしはここを

こころの化学反応の場だと思っています。

 

集まった生徒さんたちの

こころが響きあい、

化学反応を起こし、

気づき、

成長していく……」

 

 景代先生は、木曜・夜クラスのレッスン中に

よくそんなことをおっしゃられた。

鈍感な俗物たちの中で、唯一繊細な感性を持った 永遠の少年の僕にとって、

その言葉はもちろん、とんでもなく不愉快であったが、

今は、大変多くのことを学ばせていただいたと

感謝している。

 

こころの成長には、

それぞれのこころの尊重とともに、

人と人とのこころの響き合い、

共有 共感という

こころの分かち合いが

必須なのだろう。

 

現実は淡々と進むものであり、

こころも同じだ。

 

樹木を育てるように

こころもゆっくりと

法則に沿って成長している。

劇的な展開は そうそうない。

 

あの頃、僕は教室で、

いつもと違う自分で いれた気がする。

それが うれしいことだった。

 

いつもすねていて、

こころに怒りを抱え込む僕は、

あまり人から 良い人間に思われることがなかったから。

 

だから景代先生に見えているだろう「僕」という人の姿が

とても新鮮で、

そうした自分でいれる、

ということが心地良かったのだ。

 

毎週、毎週 教室へ通い、それがうれしいことだった。

 

今はなかなかでかけることは出来ないが、

積み重なった記憶のせいか、

教室は今も、僕にとって特別な空間で、

同時に ごまかしの効かぬ場所のように思う。

 

もしかしたら僕は、

人を「理解する」ということを

教わり続けているのかもしれない。

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※追記

「こころの化学反応」という言葉。

そういえば、わたしは、あの頃、よく使っていました。

和之さんのこころには、今も残っている言葉なのに、
使っていた本人は、忘れていました。

今は、同じことを伝えるのに、
「響き」とか「響きあい」
「共鳴」「共感」「共振」という言葉を使っています。

なぜ、「化学反応」という言葉を使わないのかと考えたら、
今の時代は、薬物的に実際、化学物質を使ったりするので、
誤解されやすいからでしょう。

新著のなかに、「3つの脳」にかかわる
いろいろなエピソードがあふれているのも、
「こころの化学反応」といえるでしょう。

瞑想的な意識になると、
いろいろなものと響きあってくるのを感じます。
文学、芸術、政治、経済、スポーツ…

みんな、「こころの世界でひとつになっている」、
と感じますね。

内藤景代・記


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