大きな海の中で、枠に入ったままの青い魚
NAYヨガスクール体験記 21       小林和之
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ヤントラ     

「自分探し」と言うと、

今は、人をからかうときの言葉らしい。

 

「自分探しでもしているの?」という風に。

 

「自分探しなんてやめた方がいい」

という立派な教育者もいる。

 

自分探しに囚われ、

妙なセミナーや宗教に入ったり、

自分、自分と自分に囚われ、

迷宮に入り込むより、

「他人のために何かしてごらん」

という言説だ。

 

その方が他者と関わることで、

相対的に自分というものの存在を知ることが出来る。

人に感謝され、喜ばれるという形で。

 

僕はその考えをもっともだと思う。

 

大切な経験になり、自分を高めることになる。

 

何より、現実の人間と、

そして社会と触れるという

生のリアリティを感じることが出来るだろうから。

 

人とつながり、生きている、

本物に触れている、

という実感が伴う行為はいつも楽しい。

 

特に観念的な自分探しに埋没する人にとっては効果大だ。

けれど、それだけでは

どうしても救われない人もいる。

 

激しい憧れのようなものに囚われ、

それを叶えなければどうにかなってしまう。

 

そんな発狂の予感を孕んでいる人。

 

僕は、おそらくその類だった。

 

だからよく思う。

 

あの時、もし、本屋で「冥想〜こころを旅する本〜

を手に取っていなかったら。

 

そして景代先生と出会っていなかったら、と。

 

僕はどうなっていただろう? 

 

しかし考えはするが、その先の答えはいつもない。

 

なぜだかわからないが、

僕にとってそれは、
考えられないことのひとつになっているみたいだ。

 

きっとそこで得た経験が、

あまりにも大きく自分をつくり上げていったからだと思う。

 

では、この問いの答えであろう、

敗北の物語は、どこへ行ったのか? 

 

個人のみならぬ、記憶の束を侮ることは出来ない。

 

それはイメージの群れとなって影を生み出していく。

 

僕は傲慢ゆえに

何度も この影に

追われる身となったことを忘れてはいけない。

 

 人に求められ、喜ばれ、感謝されている。

 

と日々感じられることが、自分のこころの大きな糧になっている。

 

ほんとうは、僕の方が喜んでいるというのに。

 

不思議な話だ。

 

しかし、一方で人から恨まれ、

怖れられてもいると感じることもある。

 

けれどそれもまた,僕という存在の偽らざる現象なのだろう。

 

こころというものは、

人間の全体性へ向かい、

バランスをとりながら成長しているのを感じる。

 

それゆえ一方に偏ったイメージや

価値観に執着していると、

その反対の極から、

それに見合った揺り返しが起こり、

それはまた、

波のように繰り返されていく。

 

僕という小船は、

波のはざまに揺れ動きながら、

行く手となろう、波に乗りながら、

艪を漕いで行くのだ。

 

大丈夫。

 

ヤントラは

方位のない方位を指している。

 

やがて偶然は語りかけるだろう。

 

こころの声に耳傾けるのなら。

 

きっとその意味を理解するだろう。

 

不要な情報は要らない。

 

疫病神のつぶやきも、

目を伏せ、素知らぬふりをすればいい。

 

この夜の海には、誰の声もない。

 

僕のこころ以外に。

 

霧にむせぶ彼方に、

おぼろな幽霊船の影が見える。

 

あの船は、ほんとうは誰も乗っていない。

 

誰もいないのに誰かが乗っているような気がして、

きっと誰もが呼ばれてしまう。

セイレーンの歌声に。

死者たちの声に。

 

それが避けられない過程なら、

きっとこの旅のどこかで出会うだろう。

 

幽霊船は帆を軋ませながら、今は霧のなかへと消えていく。

 

ここまで書いて思い出した。

 

教室で、木曜・夜クラスのレッスンの終わりに、

冥想をしたときのことだ。

 

「ご自分の気になる

(教室正面に飾ってある)ヤントラを

ひとつ選んで冥想してみましょう」

 

景代先生はそうおっしゃられた。

 

僕は、主となるヤントラのいくつかを見回して、

ギリシャクロスを選んだ。

 

なぜか「これ以外ない」と思ったのだ。

 

それは就職の意志を示すか示さないかで、

悩んでいた20代の半ばのときだった。

 

就職というと、

普通に考えればあたりまえのことだけれど、

僕の場合はというと、

大変な勇気が必要な事案であった。

 

なぜなら、僕は、何を隠そう

「仕事をする」

=「鈍感な俗物たちの住む社会のなかでアリのように働く」

=「敗北する」

というわけのわからない図式を持った

崇高(?)な魂を宿す

永遠の少年であったからだ。

 

僕は迷っていた。

 

「ギューッと眉間にシワを寄せて見ようとせず、

力を抜いてふんわりと観ましょう」

 

僕は冥想が苦手だった。

 

あまり何かが観えたというような経験もなく、

景代先生がそう言い、

みんながそうしているから、

しているフリをしているような落第生であった。

 

 しかし、この日は違った。

 

物音ひとつしない教室のなかで。

みな、目を閉じ、静かに呼吸をしている。

 

僕はというと、やはり何も観えない。

 

そして息をひとつ吸い、

何の気なしにふと、目を開けたのだった。

 

そのとき、目に映るギリシャクロスが、

浮き上がるように輝いた気がした。

 

そしてこう語ったのだ。

 

−ここへ来い、わたしをおそれるな− と。

 

僕はびっくりして、

ギリシャクロスを見つめた。

 

そしてわけもわからず

こころで頷いたのだった。

 

「行きます」と。

 

 ヤントラは こころの地図。

 

決意をするのは自分。

 

その先に何があるかは誰も知らない。

 

畏敬。

 

「ほんとうの個性は、きっとこの先に描かれている」

それだけを思った。

 

 

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追記ヤントラとは、目に見える世界の奥にある、
「目に見えない世界」の形や構造、パタ−ン(型)を
直観的につかむための、瞑想の道具(ツール)です。こちらへ

※追記:時間割は。こちらへ


☆「冥想〜こころを旅する本〜」内藤景代・著 こちらへ


 「永遠の少年」については
☆「BIG ME〜こころの宇宙の座標軸〜」内藤景代・著 こちらへ

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