大きな海の中で、枠に入ったままの青い魚
NAYヨガスクール体験記 19        小林和之
直線上に配置

      


秋とともに

 僕はひどく落ち込んでいった。

 

それは ほんとうにひどい落ち込み方で、

夜になり、辺りが暗くなっても僕は家の明かりを点けることはなかった。

点けようにも電気代の支払いが滞り、明かりが点かなかったのもあるが、

暗い部屋のほうが妙に落ち着いたのだ。

 

何も見たくない。

 

誰にも会いたくない、

 

僕のこころは そう言っていた。

 

気がつけば 人と話す機会もなくなっていた。

 

アルバイトもやめ、物理的に人と関わる接点がなくなっていたのだ。

 

「孤独」は、妄想の温床となる。

 

やがて僕は外へ出るのをひどくおそれるようになった。

 

 

はじめの内はそれと気づかず、

 

きっと秋も

 

調子のよかった夏の

 

続きが

 

そのまま訪れるのだろうと思っていた。

 

何も変わりはしない、何も、

と言い聞かせるように

 

秋を迎えたのだ。

 

けれど違った。

 

それは家に訪れた 普段会うこともない友人の一言からはじまった。

 

「おまえの顔って 黒人みたいだよな」

 

そう言われたあとで

 

僕は凍結した。

 

そして見た。

 

まっくろい闇の蓋が開き、

そこから何かが漂いだすのを。

 

黒い炎よりも もっとよくないもの。

 

谷底に溜まる黒い霧のようなそれは

居間の部屋のなかへ、

音もなく沈殿していった。

 

そして僕は気づいた。

 

いつも まっくろい服を 着ている自分に。

 

カタワという言葉がある。

 

おそらく差別用語のひとつだろう言葉。

僕は、自分がその言葉の意味と同じ人間なのじゃないかと思い、

おそろしくなった。

 

マトモなあたりまえの

普通の人間たちから、

憐れみの目を向けられ、

またあるときは、

排斥され、嘲笑される存在。

 

容姿のことだけではない。

 

いじめを受けた子でもあり、

普通の人たちの持つ

 

笑顔や仲間意識など

とうてい持ちようもなかった。

 

カタワ。

だから僕は、今もこの言葉を意識がとらえると

あの頃の記憶とともに

深い懐かしみのようなものを憶える。

 

まるでふるさとへ帰ったような

懐かしさに立ち尽くすのだ。

 

僕はそのとき、

悲しい顔はきっとしていない。

 

もしかしたら満たされたように

静かに佇んでいるかもしれない。

 

そして、しばらくぶりだ、と。

 

久しく会わなかった人々と懐かしく時を共にするだろう。

 

左目をなくした女、

ほんとうの自分を

左目にしまい込んだという女が

今も 僕のこころのなかにいる。

 

そして赤い花びらの降りしきる

あの舞台の上で

 

眼帯を覆っていた手をほどきながら

 

「もう一度、私のこころに赤い花が咲きました!」

 

と血の涙を流しているのだ。

 

 

それは 景代先生から薦められて観た

 

劇団 新宿梁山泊の「ジャップドール」

という舞台のワンシーンだった。

 

舞台の上の彼女は、片目を失い、足を悪くしていた。

彼女の言った

「きれいな言葉でうそをつくのと、

汚い言葉でほんとうのことを言うのと、

いったいどっちが汚いんだ!」

 というセリフが、今もこころに残る。

 

他にも たくさんの友人のような気のする人たちと通り過ぎた。

僕に親切にしてくれたへび男のような顔をした身障者の男性。

精神病を患った木工工芸家。

18歳で肺がんになった暴走族の少年。

車椅子の少女。

 

今は すっかり 普通の社会人の

ふりをしている僕に 会いに

彼らは訪れる。

 

そして「約束したのに……」と言われる。

「忘れたの?」とも。

 

黄昏のような色をしている彼らは、

きっと僕のこころの どこかで

あの日のまま

生き続けているのだろう。

 

「何も変っていない」

と伝えたい。

 

貧乏くじを引き、

落とし穴に はまってしまった人々。

 

厄介な憧れを持ち、求めた人。

 

僕の友人たち。

 

同情などしていない。

 

自嘲の念も微塵もない。

 

そこには音が かくされている。

 

その音を 耳にすると 僕は満たされる。

 

ひとりでも いい と思い、

ひとりでは ない と思う。

 

もう誰もわからなくていい、と思い、

誰かに見守られている気がする。

 

ほんとうにそれは音だろうか? 

懐かしみを憶える 誰かの声のような。

 

それさえあれば 生きていける。

何はなくとも なんとかなる。

 

そう思える音。

僕はその音とともにありたい。

 

なんだか支離滅裂な文章になったが、

とりあえず「生の実験」は続く。

 

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    追記 :

☆「ジャップドール」地底人伝説

1991年 劇団 新宿梁山泊(りょうざんぱく)
作    ・鄭 義信
演出・金 盾進(金守珍)
主演・金 久美子 六平直政

JR新宿駅南口のタイムズスクエアができる以前、空き地で紫テント公演

ロマンの復権をとなえた劇団の「直感的・観想的・メタファー的」な、
お芝居でした。

下半身がもぐらで上半身が人間の地底人に
シンボル(象徴)される男(六平直政)が、
あけびの木の精(金久美子)に恋をするが、
アンダーグラウンドの闇の世界で…


文字通りに解釈すると、もぐらの話。
しかし、もぐらがシンボル(象徴)する存在に共感すると、
こころの深い部分に響きます。


☆劇団 新宿梁山泊についてのお話は、「瞑想フォト・エッセイ]のこちらへ

    内藤景代(Naito Akiyo)・記

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