大きな海の中で、枠に入ったままの青い魚
NAYヨガスクール体験記 16         小林和之
直線上に配置



初めてのレッスンは、火曜日の昼間を選んだ。

数人の生徒さんと女性の指導員さんが一人いて、

僕は、青いスウェットの上下に着替えて座った。

 

教室には、
   全身の映る
     大きな鏡
        中央の壁に張り付いていた。

 

自分の姿が映っている.僕はそれがいやだな、と思った。

容姿を気にして仕方のない僕にとって、

鏡を見なければならないのは苦痛だった。

でもきっとそれだけではない。

鏡に何かをさらけ出されそうで嫌だったのだ。

たぶん、こころのようなものを。

 

僕は、自分のこころが外に漏れているような妄想をときどき持った。

もしくは、心を読まれているような。

それは時に戦慄的な妄想であり、

僕は、知られまいとする防御の姿勢から、転じて、

たやすく怒りと憎悪の権化のようになった。

 

こころが漏れている。

 

空気に漂って僕の妄想が漏れ出している。

人が見て、それを嫌がったり、笑ったりしている。

そうした妄想は病的でもあり、

自分でも変なものだと思っていた。

 

こうした妄想は「何らかの精神的な疾患特有の症状」と

括られても仕方のないことだろうけれど、

そう解釈(診断)されたところで

何も解決はしない。

 

きっと僕の陥っている状況を知り、

深いところで理解できる人はいない、

「誰にもわからない」

「どこにもない」

ヒロイックにそう思っていた。

 

少なくとも景代先生の「BIG ME〜こころの宇宙の座標軸〜」を

読むまでは。

 

鏡をよく見るようになったのはいつの頃からだろう? 

僕は顔のことでよく人からからかわれていたので、

高校生の時期から、鏡を見るのが嫌いになった。

(もしくは気にするあまりおそるおそる見ていた)

 

だから出来るだけ教室の大鏡も見ないように、

気にしないようにしていた。

 

けれどもちろん視界に入るので、

僕は鏡の中の自分を見るたび、いちいち反応して困った。

 

しかし見ないように努めれば努めるほど、

鏡の存在は僕の意識を占領していった。

 

鏡をしばらく見ていないと気になって仕方がない。

 

こわいもの見たさで、そーっと見る。

 

今のはよかった、などとほっとしたり、

思いがけず目に飛び込んだ自分の顔に驚いたり、

ピンと来なくてやり直したり。

 

にわかに僕はいそがしくなった。

 

挙動不審……。

 

きっと不自然な動き方をする僕を見て

指導員も奇異に思われたことだろう。

けれど僕はヨガどころではなかったのだ。

 

「鏡を見ながらやってみましょう」

 

 指導員さんがそう言う。

僕は少しドキリとしてゆっくりとふりむく。

開き直り、思い切ってふりむくこともある。

 

そこには僕がいる。

 

しかし全身の映る教室の鏡は、

他に気になる部分も映し出していた。

 

それは胡坐をかいて座り、

ふりむいたときの自分の後姿だった。

 

僕は自分のおしりが妙に大きいように思ったのだ。

 

角度を変え、試みてみたが、やはり大きいように思う。

 

その事実に驚いた僕は、

急にそわそわと落ち着きがなくなり、

たびたび、後ろをふりむくようになった。

実際は人並みなのだろうが、

そのときの僕は「気のせいなどではない」と思ったのだ。

 

今、思えばそれは象徴的であった。

 

人間の全体性において

欠落しているものに僕は反応し、

教室に来たその日から

意識し始めたのだ。

 

それは病的な様相を持った

不快な気づきであったが、

「永遠の少年」のあるタイプの人にとっては、

大切な一歩だったと思う。

 

あたりまえのことだが、

 

僕には肉体があるのだった。

 

 

「BIG ME〜こころの宇宙の座標軸〜」のなかに、

ラテン十字架を指してこう書いてある。

 

永遠の少年である僕は、

教室へまだ行く前、

それを読んで

非常に嫌な気分になった。

 

 

《高い志の「意識」が

卑小な現実や、

血の掟に従う

「遺伝子」に盲従した因習によって、

犠牲になっているイメージ…(中略)…

 

対立したふたつのものが、

対等ではないからだ。

 

縦が長すぎる。

 

理想が高すぎて、

現実からしっぺ返しを受け、

処刑されている。

 

血の掟に負けた、

 

永遠の魂の悲鳴が聞こえてくる。

 

だったら、縦を、理想をけずればよいのか? 

ちがう。

 

現実を軽蔑せず、

現実と言う横を広げ、

耕し、

魂の願いを種として現実に蒔く。…(中略)…

 

対立した、どちらか一方が、

犠牲になったら、マンダラ発想は出来ない。…(中略)…

 

自他一如の中心が、標的にあれば、

必ず、宇宙的な知恵がわいてくる。

 

BIG MEからのメッセージだ。》

           BIG ME〜こころの宇宙の座標軸〜』内藤景代・著

 

 

僕はこの文章を読んだとき、

ケツを叩かれているような気分になって嫌だったのだ。

 

正体はとっくに見抜かれ、うかうかしてられませんよ、

と言われているような気になった。

目をつむり、耳をふさいで、

「誰にもわからない」

「どこにもない」と、

妄想のなかに身を置いている方が

どんなに楽か。

 

嫌な気分ではあったけれど、

しかし僕は、

この人は正しいことを言っている

と直感していた。

 

現実の葛藤をおそれず、

自分を試してみること。

 

それ以上に

人を成長させるものはない。

 

そのための効果的な方法や

発想法に こんなのがあるよ、

と語っているのだ。

 

僕は 自分がほんとうは 臆病からあきらめ、

わかっている気になって、

ほんとうは ただ逃げているだけの

カッコワルイ人

  のような気がしてきた。

 

 

《こころは 成長していくのが 自然な姿なのです。》

 

   ※NEW『冥想〜こころを旅する本』内藤景代・著〜より

 

僕だけが そこから取り残されている。

そんな気がして仕方がなかった。

 

 

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 ※追記:

★NAYヨガスクールの鏡の側

NAYヨガスクール
(内藤景代・主宰)のレッスンは、

ヨガのポーズをするときは、

鏡の前で練習し、
鏡の側が正面になります。

 

次に、瞑想するときは、

鏡のない、反対側の空間が正面になるので、
全員が、体の向きを変えます。



鏡のない空間が、「NAY正面」です。

瞑想用の「3Dヤントラ額」(内藤景代・作)や、

季節の飾りがアレンジされている、瞑想空間です。

 

床にはカーペットが敷きつめられています。(だからヨガマットは不要です)

 

「NAY正面」の毎月の飾りについてのお話は

 

瞑想用の「3Dヤントラ額」(内藤景代・作)の例は、
   

 

()の長いラテン・クロス(ローマ十字)など、
象徴的(シンボリック)な
ヤントラについては


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