大きな海の中で、枠に入ったままの青い魚
NAYヨガスクール体験記 10         小林和之
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  言葉  ■キーワード■


いつの頃からか、「言葉」を頼りに歩くことにした。

 

キーワード。

つまり「鍵となる言葉」とはよく言ったものだ。

ミステリーの謎解きでもなんでもないが、

今、ここの自分にとって必要な言葉を僕は探した。

 

無意識の力に翻弄されやすく、

情動的で、イメージの海に溺れやすい人にとって

「言葉」によって「意識化」する、

という手法なくして、

自意識を上手に育てることは出来なかっただろう。

 

その言葉たちは、単なる単語でしかない。

僕の選んだ(または景代先生から教わった)言葉たちは、

算数で言えば定規や分度器のようなものだ。

 

身辺にまつわる出来事や無意識から生まれるイメージに

言葉をかざして測ってみる。

 

そして意味を理解しようとしたり、

(今の自分には)不必要と退けたりするのだ。

 

人が聞いて「何?」「それがどうしたの?」

と言われそうなものばかりだけれど、

僕にとっては、意味と価値のあるツールなのだった。

 

たとえば、教室へ行く前の僕は、

「秩序が生まれる」とよく口にしていた。

 

「秩序」という言葉が必要だったのだ。

 

『冥想〜こころを旅する本〜』に書かれている

「カオスからコスモスへ」のコスモス(秩序)。

 

カオス(混沌)の真っ只中にあった僕にとって、

この言葉は、今の自分に必要不可欠なものと直感し、

光明が射しているように思えたのだろう。

 

(一足飛び過ぎるが)ゆえに、

当時の僕は「秩序」という言葉をたびたび口にし、

また大切に持ち歩いていた。

 

はたからはそうは思えなかっただろうけれども。

 

間違った不適切な言葉を選んだこともあった。

 

残念なことだが、それは大抵こころが天邪鬼モードに入り、

自我にこだわる醜い自分、

つまり我流に走ったときだったように思う。

 

滅びの呪文は使ったらいけない。

 

言霊(ことだま)と言うように、

言葉の持つ意味は、

無意識への暗示となり、

またその言葉と共鳴する事象を引き寄せる。

 

まるでその言葉の持つ意味を

目的地にしているかのように。

 

「秩序」

「言葉」

「社会」

「意識化」

「事象」

「客観性」

 

だいたいこの順で、

ある時期、ひとつの言葉が僕の心をとらえた。

 

その道の導き役は、

やはり教室であり、景代先生であった。

 

上記の言葉たちに、

僕は最初から必要性を感じていたわけではない。

 

むしろ、嫌いであり、

それは苛立たしい拒否反応を起こす言葉たちであった。

 

これらの言葉は、

僕の自我にとって

不愉快なイメージ群を喚起させ、

ゾロゾロと得体の知れないものを引き連れて来るように感じられた。

 

『わたし探し・精神世界入門』に登場する「弟」であり、

「永遠の少年」である僕には。

 

まずは弱く未熟な自我を育てること。

 

教室へころがり込んできた僕を見て、

景代先生はそう考えたのではないだろうか? 

 

レッスンの時や

レポートに書かれたアドバイス等、

景代先生から与えられ、

実感として提示される言葉は、

永遠の少年に必要なテーマばかりであり、

また、自我育てに必要なものであるからだ。

 

僕はよく抵抗もしたけれど、

基本的には、自らその意味を体現していく
 という地道な過程を選んだ。
…かな? 

 そうでもないような、あまり自信はないけれど…。

 

ともあれ、不思議なことに、あれだけ不愉快だった言葉たちを

僕は今、愛するようになっている。

 

自分と対極にある言葉たちを

僕は手に入れたのだろうか? 

 

実はそうとも思っていない。

単に慣れたのだろう。

 

意識と無意識。

個人と社会。

 

今、振り返ればわかる。

 

これら対立する物たちの統合が僕のテーマだった。

 

(それは今も)
 「汝なすべし」と「我は欲する」の葛藤。

 

仕事はさせられるものでも、

したいことをするだけのものでもない。

 

「汝なすべし」と「我は欲する」のどちらかではない。

 

人がこの世に存在し、生きているということは、

必ずどちらも必要な声なのだ。

 

大切なのはその融和点を見出し、

そこへみずから身を置くことなのだろう。

 

人々の声も、

こころの声も聞く、

調和性を持つ能動者として。

 

こう書いて、むかし、レッスン中に

景代先生から話しかけられたことを思い出した。

 

それは木曜の夜のクラスで、

もうお話しも終わろうとしている頃のことだった。

 

「最近はどうですか?」

みたいなことを景代先生に聞かれたのだ。

 

20代の半ばの頃だっただろう。

 

僕は、上記のように言葉の獲得中であり、

オフでもオンでも

「意識化」を繰り返していた。

 

仕事をこなし、家でも文章を書いたりして。

 

普通の人にはあたりまえのことかもしれないが、

僕には大変なことだった。

 

だから少し疲れていたのかもしれない。

僕はこう答えたのを憶えている。

 

「・・・意識的にしよう、意識化しなくちゃ、

と言葉を使い、

外へ形にしようとしている一方で、

もうひとりの自分は、

もう眠りたい、と言っている。

何もかも終わりにして無意識の底へ沈んでしまいたいって。

・・・そう言っているような気がします」

 

変なことを言ったようだが、僕は大真面目だった。

 

そのあとの景代先生のコメントはさらに不思議なものだった。

 

「相反している二つの意識を同時に保っているというのはすごいこと、

どちらもあなたで、

どちらの自分も大切なのよ」

 

そんなようなことを景代先生はおっしゃられた。

たぶんほめられたのだと思う。

 

「そういうものなのか」と僕は思った。

 

そして少しその気になった。

 

あたたかい思いが胸に広がった。

……よかった。正直に話してみて。

 

まさかほめられる類のものとは思っていなかったので、

こうして今でも僕の心に残っている。

 

あの日のまま、その気になった僕のまま。

 

言葉の意味は、自ら語るまでわからない。

 

言ってみなければわからないのだ。

 

試してみなければ。

 

きっとその瞬間を生きた人だけが知る類のものなのだろう。

 

古代のむかしから、

言葉というのは本来そういうものだったのだろう。

 

だから僕はバカなままでいいや、と思う。

 

他者(未知)とはじめて遭遇した古代人のように。

……………     ……………     ……………    ……………

※追記@:

 『冥想〜こころを旅する本〜』に書かれている

「カオスからコスモスへ」は、
 〈意味のある偶然―すべてが必要だった

 のページにあります。 その文を引用しているサイトは



 ※追記A

  ◆『わたし探し・精神世界入門』に登場する「弟」とは。

内藤景代の『わたし探し・精神世界入門』は、

父、母、兄、姉、弟、妹などの6タイプに分け、


タイプ別に、それぞれの問題点が、わかるように、書いています。

目次【 1 】今の状況――それぞれのわたし探し

その分類の中の「弟」タイプの話が、和之さんには、しっくりきたのでしょう。

                       『わたし探し・精神世界入門



※追記B:

  ◆「汝なすべし」と「我は欲する」の葛藤。

このお話は、『わたし探し・精神世界入門』にありますが、
本来は、哲学者ニーチェの〈3様の変化〉についての話です。

自我の成長にともなう、変身の物語が〈3様の変化〉です。

砂漠の巨大な龍は、「汝なすべし」の化身。

それに反抗する自我は、「我は欲する」と吠える、獅子。

獅子(ライオン)は、龍(ドラゴン)と、砂漠で決闘する。


そして・・・

ビルドゥングスロマン=成長の物語〈3様の変化〉については



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